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岡田由季『中くらゐの町』を読み解く

先生の靴の失せたる新年会    
セーターの四人が揃ふリハーサル 

岡田由季 『中くらゐの町』 ふらんす堂

存在しない記憶

 岡田由季の俳句の面白さを上手く説明することを難しく思っていた。もちろん、どういう句か一句ずつ鑑賞することはできる。というより、引用句を見ればわかる通り、少なくとも意味内容のレベルでどういう句か悩むことはないし、受け取る情報の深度が人によって大きく違うということもほぼない。
 便宜的に情報の深度と言ったが、例えば「万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男」について、「万緑」が「万緑叢中紅一点」という王安石の詩の一節から採られたことを知っているかどうかで、受け取るイメージに差が出てくるが、岡田由季の俳句にはほとんどそういったことがない。
 逆に言えば、情報が全て開示されており、句の読み解きに読者がそれまで培った知識や、作者を知るものだけが持つマル秘情報のようなものが必要ない。そういうと「いやいやいや、いるでしょ、季語に対する深遠な理解と知識が。俳句はそこが肝でそこが難しいんだから、俳句を知らない人には岡田由季の面白さは分からないでしょ」という声もあるかもしれないが、例えば「先生の靴の失せたる新年会」について、「新年会」の由来や歴史、先行句を知っていたところで何の役にも立たない。がやがやした下駄箱付近の黒・
茶色・スニーカー・ヒールといった靴の混み合いが分かっていればよいし、それは句で開示された情報だけで充分イメージすることができる。手ぶらで鑑賞できる俳句なのだ。「セーターの四人が揃ふリハーサル」についても同様で、「セーターの四人」がまとう単純化されたコミカルさを感じるのに、セーターの季語の本意は不要で、「四人が揃ふ」の安定感とリハーサルの風景であることから容易に導き出せる。
 この容易さは共感性の高さ(速さ)と言っていいかもしれない。つまり、日常の平易な言葉で書くことが徹底されているため、各単語や措辞が読者のこれまで見聞きした情報や映像に容易に結びつき、それが俳句という設計図によって組み合わされることで、例え「先生の靴が失せたる新年会」「セーターの四人が揃ふリハーサル」を実際には体験していなくても、そのイメージ映像がまるで記憶を思い出すようにありありと立ち上がってくるのだ。今日的な言葉を用いるならまさしく「存在しない記憶」を呼び起こす俳句である。
 しかし、この面白さは岡田由季固有のものではない。むしろ「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規」に見られるような俳句のオーソドックスな面白さといっていいかもしれない。もちろんその作用が強烈であることは特筆すべきことだが、それでもその一点を以って「岡田由季のここが面白い」を人に説明することには難しさを感じるし、また、それにはあまり意味がないようにも思う。しかし、この香るような面白さを「揮発性の面白さ」と呼んで一応の納得をしようとしたときに、それでも尚残る、不可解な違和感があることに岡田由季第二句集『中くらゐの町』を読んでいて気付いた。

それを、明日10/08 22時からのTwitterスペースの読書会で解き明かしていくつもりである。以降に読書会で話そうとしていることのトピックをいくつか断片的に載せるので、もし興味をひかれた方は来ていただければ嬉しいです。(尚私はTwitterがXなどというクソダサ名称に変わったことを認めていないので、TwitterはいつまでもTwitterと呼ぶことにしています。)

地方都市マップ・NPC・ストラクチャー

前作、『犬の眉』では読まれた場所が特定できる地域名、固有名詞の句が七句あり、作者岡田由季の存在を感じることができる。

西瓜から大阪湾のでてきたり
岸和田の海にぶつかり猫の恋
落柿舎の靴べらを借り花の昼
鳥曇道頓堀をみな覗く
スカイツリー蜂の羽音のなか育つ
花筏造幣局の方へ寄る
映画村あちこちめくりかたつむり

岡田由季『犬の眉』現代俳句協会新鋭シリーズ4

市ヶ谷のホームから見る残る鴨
因島大橋の下寒四郎

岡田由季 『中くらゐの町』 ふらんす堂

しかし今作ではそれが上記二句しか認められず、地域が特定できない句がほとんどを占める。しかし、公民館や幼稚園など場所が詠まれた句は非常に多く、日本の平均的な地方都市の姿が浮かんでくるようになっている。ローカルでありながら巧みに風土性が取り除かれている。この句集は編年体ではなくテーマごとに章立てしたものであることは句集のあとがきで作者自身が語っており、この一般名詞ならぬ一般地域化(匿名地域化)も作者の意図、コンセプトに基づいたものであることは疑いようがない。それは句集名の『中くらゐの町』からも明らかである。誰もが訪れることのできるゲームのマップのような違和感と親近感がある。その狙いは何なのか?

句集は「1000トン」「土筆の範囲」「光の粒」「女たち」「自動筆記」の全五章で構成されており、それぞれにテーマを持たせていると作者は言う。章ごとの狙いを見出すのは「光の粒」を除いて少し難しく、しかし通読すると、大まかに「1000トン」が遠出を含む外出やそこでの交流、「土筆の範囲」が居住地周辺の写生、「光の粒」が生き物全般、「女たち」が人工物詠や人間の認知というフィルターを通した諷詠をゆったり意識しているのではと考えた。「自動筆記」だけは分類できずひとまずetcと判断した。そうすれば市ヶ谷の句が「1000トン」(外出)に因島大橋が「自動筆記」(etc)に収録されていることで、全体を占める匿名地域性というコンセプトにもそれほどは矛盾しなくなる。

章ごとの狙いを見出すのが難しかったのは、句の語り口が一定で感情の上下や心象の拡大縮小、メリハリが少ないことに起因する。それにもかかわらず、退屈せずにするすると読めてしまう不思議さがある。句集中でメリハリを出すためかなり揺さぶった書き方をする私など(西川火尖『サーチライト』文學の森)とは対照的である。しかし、この語り口の一定さ、テンションの一定さこそが先に感じた不可解な違和感解明の糸口になるのではないだろうかと思う。俳句は作者の言葉でできている。その言葉から受けるテンションが淡々と一定なのだ。四辺そろった構成単位のように。

一般に、岡田由季作品が語られるとき、その写生の穏やかさ、上手さを感じさせない上手さ、自然体、を賞賛するような句評が多かったように思う。もちろんそれは間違いではない。しかしそれだけでは量れない何かがなければ、私は岡田由季俳句を好きにはなっていなかったはずだ。でもそれが何かがいままでわからなかった。それが『中くらゐの町』を読んでようやく少し話せる目処が立ったように思う。明日、是非、一緒に句集を解き明かしましょう。


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