泣きそうになる


 泣きそうになってから、三晩挟んだ。書こうとしていたことは「人のこころがわからない(「行人」より)」という苦しさについて。日記を見返すと、

 「好きな人を一人の人間として見ることがどれほど大切か。そして、それは好きな人に限らないのだということに気づいたのが今日だった(なぜか)。書くのは明日かな。書くほどに身近な人に対して時間も関心も取ってこなかったってこと。物格と見下しは同じようだ。」

とあった。身近な人たちに時間と関心を取ってこなかったこと。

 

 例えば、私がアルバイトで通う学習塾には講師仲間の後輩たちがたくさんいる。その彼らの何人かが、内に持つ普段は見せない苦悩みたいなものを溢れさせるのを、飲みの席で何度か目にしてきた。でも、先輩(私)は彼らに勤務外の時間を割こうとはしてこなかったし、彼らの深い部分にもしかしたら触れられるかもしれない場を作ってはこなかった。帰りにふらっとビリヤードをすることもなければ、山梨まで軽くドライブに行くこともない。4年経って振り返ると、彼らについて思うことも書くこともなかった。彼らについて何も知らないのだ。温厚であると自認していた自分が、こんなにも冷たい。

 思い返せば、それは中高一貫時代から始まっていた。在学中は、力を持った(というか威圧的な)部活に入っていながら、属性に分け隔てなく付き合う変わり者でいたし、友人たちからも「いい奴」として慕われていて、交友関係に自信もあった。だけど、卒業してみると特に付き合いが続いている人も少なく、何より六年間あんなに仲良くしていた多くの友人たちについて何も知らなかった。驚いたのは、意外と周囲の友人たちは学校外に自分たちで会う時間を作っていた/そして今でも作っているということだ。私には、彼らとの記憶は学校内(学校の時間内)でしかなかった。

 

 高校の時に「君はいつも笑っていて優しいけれど、一体腹の内では何を考えているのかわからなくて不気味だよ」とよく笑いながら言われていた。その時には、そういう「キャラ」だと自認して笑っていたけど、それは事実だった。私が彼らのことを知らないのは、他でもなく私が私の腹を割っていないからだった。

 腹を割らない、これこそが私の強力な弱点だと気づく。そりゃあ就活も上手くいかず、恋人もできない訳である。こんな調子では一番大切にしたいと思っている人たちさえ大切にできない。私はずっと込み上げている吐き気に耐えられず、格闘は一時休戦する。

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