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浜を拡げる(2021年3月17日)

今日は小春日和のなか、公園中に泥の「浜」を拡げて一日中裸足で暮らした。これは、別の公園での別の一日に惹かれて始めたのだった。そこではホースから出る水を砂場に埋めて、「見て見て、湧水みたいだね!」と興奮するママの姿があった。覗いて見ると、透明な水が砂の上に浮かんだ浜辺のような水溜りができていて、2歳の女の子とその泥たちを掬ってはぼとぼとと落とす遊びをして過ごす昼下がり。その日が今日の始まりになる。

裸足にあたる水が冷たい。昼を過ぎて子どもたちが集まってくると、一緒に寝転んでみたりもする。腕が、脹脛が、首が、少しだけ水泥の中に埋まる。気持ちが良い。水脈がつくる水路のなかには砂礫の縞模様が出来ていて、そこを赤く塗られた小さな木の列車が走って掘っていく。男の子が他の木片で駅を作り、頬を水に付けて覗けば、そこには湖上の駅のホームがある。

泥まみれになった子どもたちと斜面の日向に行って、肌の上に乗った泥を干す。横では樹に括った大きなブランコで三人組の女の子が空へ森へと風を切っている。暫くすると二の腕や腱に鱗ができてくる。それは爬虫類に似ていて、僕らはまるで日光浴するイグアナたちのようだ。泥たちは丹念に皮膚の肌理を写し取って、もう一つの乾いた皮膚を作っていく。歯や爪ほど固くなく、肌ほど弾力もない、ボロボロと落ちる皮膚を纏う。かの砂漠の我愛羅ともまた違った感覚だ。

高学年たちが帰ってくれば、泥は汚いからいやだという。それでも戯れを仕掛ける彼らに天高く雨を降らせれば、マットと遊具でファランクスの要塞を築くものだから、突発的に合戦が始まる。彼らには反撃のない籠城戦で、流れの中でこちらの隙となるひとりの男の子を狙い撃ちするべく、城が雪崩落ちてくる。森の奥へと隠れる彼に向かい、もう追撃をする馬群の郎党たちの眼前には、隠し砦やアパッチの舞台が出来上がっていたのだろうか。依然として裸足の私には砦を追う脚は無く、場を白けさせるほかないのだった。

暫くして、場が白けても尚自らの内の熱を冷ましきれない男の子に申し出てタイマンを張る。彼は長い時間、呼吸の聴こえるほどの集中をしていた。勝負を終えた後、「嗚呼こわかったあ」と吐露し、お互いに握手してその場を閉じた。ルールのあるゲームとは、入口と出口を用意するということだ。スポーツと同じ。争いは残酷だからこそ、枠を作る。

柔らかい浜。公園が水泥を纏い、縞のタトゥーを自らに入れる。タトゥーは皮膚の下の石たちも目覚めさせつつ、私たちに裸足になれと促す。それが気持ち良い。そこで腕を潜らせ、頬を浸してみる。濡れた大地のなかに、水餃子のように皮膚たちが包まれていく。上からは冬の陽が差していて、日向に出てみる。そのまま水たちは日向へと一緒になって出て行ってしまって、乾いた土が石膏のように私の表面を塗り固めていく。

高学年たちが築いたマットの山城もまた、己の身を包む外皮だったのかもしれない。泥とのあいだにできる身体の感触やふるまいは、身体の包む/包まれるという特性の軸を一つ持っているのだろう。そこに「ウェット&ドライ」という料理や神話にまで通じる軸が交差している。

そして、その膚を裁つように切り開いていく赤い木の列車は、遊び場における木という存在の現れへと行き先を進めるだろう。そこにはハイジのブランコが掛けられ、仰ぐ子どもたちは空(あるいは風)を知ることになるだろう。

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