花火 / 清水優輝

 東京に出てから何年も地元へ戻っていなかった。実家の最寄り駅へ向かう電車は高校の頃から何も変わっていない。3両しかないぼろい電車。乗客は少ない。夏期講習にでも行くのであろう中学生が英単語を開いて眠りに落ちた。しわくちゃのおじいさんは着信の止め方が分からず、「木星」を流し続けている。天井には扇風機が設置されており、懸命に首を回して、乗客に温風を送る。汗が額から何度も垂れてくる。
 降りた駅のホームにプール帰りなのか髪の毛を濡らしたままの少女がいた。タオルが詰まった透明のビニールバッグを揺らしてビーチサンダルでぱたぱたと走って改札を抜けていく。私もあとに続いて無人の改札を抜ける。少女は駐輪場へ向かった。駅の周りは何もないままだった。ロータリーはこの街のメインストリートに繋がっているはずなのにすべての店が閉じてしまった。私が通っていた塾は数年前に撤退した。誰も掃除をしないのだろう、雑草が生えている。交番だけはずっとある。いつもこのからっぽの駅を守っている。
 汗が目に染みる。15時を過ぎても日差しが痛い。顔の汗をぬぐって目をあげると大きな木が風に吹かれて葉を揺らしていた。背後に流れる入道雲がわざとらしいくらいに夏を演出している。蝉が羽根を必死に震わせていた。それで女が寄って来るならいいもんだよな。私は眩しくて顔を俯かせて歩く。学生時代に毎日毎日歩いた道。風景と行先を体が覚えている。
 東京から持ってきたお菓子の入った紙袋がぐしゃぐしゃになっていく。東京駅で実家にお土産を買った。上司に買って帰れと言われたためだった。金魚の絵が描いてあるクッキーだった。深い紺色に花火のイラストが描かれた夏限定パッケージ。
 このまままっすぐ歩けば実家だ。ホルモン焼き屋の前の横断歩道を渡って、一方通行の道の真ん中を歩き、ゴミ捨て所の前を通り過ぎたところにある。このまままっすぐ歩けば。私の体は実家に近づくたびに緊張していく。外の音が遠くなり、自分の心臓の音だけが耳に響く。見える世界が白飛びしている。
 目を閉じていた。気づけば私は実家からどんどん遠ざかっていた。家の前を通り過ぎて、立ち止まることもせず、まっすぐに歩き続けた。家に帰れなかった。1泊分の荷物が詰まったリュックの肩紐を強く握りしめる。家を離れるほど体の緊張は解けていき、音も戻ってきた。でもまだ呼吸が浅い。実家に帰ってきたところですべきことはなかった。上司が気を利かせて帰省する時間をくれたが、私は実家に帰るつもりはなかったのだと思う。もはや、自分の行動を自分で判断することのできない私は上司の言葉のままに地元へ来てしまった。
 行く当てもなく私は歩いた。幼い頃に遊び回った道をふらふらと進む。幼馴染と遊んだ空き地にはアパートが建っていた。書道セットを買った文房具店は潰れていた。田んぼが減って新しい似たような顔の家が増えているように思う。住宅街の真ん中を歩くと何か悪いことがしているようで居心地が悪い。人の家の駐車場に遊び終わったビニールプールが疲れた様子でくたびれていた。子供たちの笑い声と母親の注意する声が家の中から聞こえる。
 私はいつから一人だっただろうか、とふと思う。幼い頃には妹が私の足元にひっついて、よく笑っていた。その頃の私は彼女が苦手だった。何を考えているのかわからなかった。妹と私、そして親戚のおばさんの3人でプールに遊びに行ったことがある。彼女はそのとき私の手を握っていたはずだ。私の手の中に彼女の手があった。どのようにしてそうなったのか思い出せない。母親とデパートへ行くときに迷わぬように手を握ってくれた、あるいは、遠足で逸れぬように手を繋ぐよう担任に指示された、そのときの経験が私に彼女の手を握らせたのだろうか。それとも、心細さからか、私を信頼してなのか、習慣からか、いずれかの理由で私の手の中へ手を伸ばしたのだろうか。私は少し照れながら彼女の小さく柔らかい手を握っていた。きごちない私とにこにことしている妹を見て、おばさんは私たちの扱いに困っていた気がする。
 ややすると公園に到着した。家族連れが遊んでいた。ジャングルジムの一番高いところに上り、誇らしげな男の子の甲高い声が響く。私はリュックをおろしてベンチに腰かけた。誰かが吹いたシャボン玉が目の前を通る。
 妹は私が小学校6年生の夏に交通事故にあって死んだ。私は生まれてはじめての葬式に戸惑っていた。母親と父親は葬式でずいぶんと泣いていた。私が死ぬときにはこんなに泣かないだろうと思った。終始無表情の私を、両親含め大人たちは陰で文句を言っていた。妹が生まれたとき、親は私の存在を忘れたようだった。100点満点のテストを見もせずゴミ箱に捨てられたときにその事実を知った。幼い妹は、親からの愛情をたっぷりと受けていつも微笑んでいた。私は今もあまり笑わない。
 呆然とベンチに座る男は怖いらしい。時折、子供が近づいてくるがすぐさまその保護者がやってきて子供を私から遠ざける。笑い声はいつも私から遠いところで発生する。足元に虫が群がっていた。腕を蚊に刺されて痒い。汗が染み込んだリュックは臭く、スニーカーは今にも穴が開きそうだ。
 ふつふつと怒りが湧いてきて私は立ち上がった。そして手土産のクッキーを破って、思いっきり地面に叩きつけた。それを何度も踏み潰した。グシャグシャと地味な音を立てて形が歪む。3240円は一瞬で砕けた。包装紙が散らかって舞う。地面に落ちたクッキーの屑を発見した蟻が群がる。遊びにきている家族連れが怪訝な顔でこちらを見ている。そのうちのひとり、3歳くらいの男の子が私をじっと見ている。彼の目は私の衝動をバカにしているようだった。頭がおかしいのかな。なにイライラしてんの?という声が聞こえてくるようだ。汗が背中を伝う。目の前が暗くなる。知らぬ間に歯を強く食いしばっていたらしく、歯が痛んだ。
 我に返った私はゴミを拾い集め、ゴミ箱に捨てた。公園にいる人たちの視線が背中に突き刺さる。ゴミ箱の中にはらはらと落ちていくクッキーの残骸。私はその場から動けなくなりずっとゴミ箱の中を見ていた。公園で遊ぶ人の声や蝉、風の音が聞こえる中にどこか遠くから鉦を鳴らす音が混じる。キンキンとなるそれは懐かしさの中に恐怖を感じた。顔の汗がゴミ箱へ落ちる。様々な音が頭の中で反響してうるさい。私は耳を塞ぐ。耳を塞いでいるとちかちかと目の前が点滅し始めた。私はふらふらとベンチに戻った。点滅が消えない。数秒目を閉じて状態が落ち着くのを待った。
 そして、頭をあげると、妹が昔と変わらぬ姿で目の前に立っていた。にこにこと、嘘みたいに笑っていた。嘘だと思う。
「お兄ちゃんひさしぶり」
 妹はか細い声で言った。見覚えのある水色のTシャツとフリルのついたジーンズのミニスカート。確か、妹の一番のお気に入りだった。
「ひさしぶり」
「行こう。みいが連れて行ってあげる」
 みいは私に右手を差し出した。いつだか旅行に行ったときに買ってもらっていたブレスレットをしていた。私はその右手を掴んだ。6歳の彼女は私を連れて公園の奥の方へ行く。
「お兄ちゃん、忘れてたでしょ」
 みいは歩きながら私に言う。みいの歩幅はとても小さい。
「なにを」
「私と一緒にお祭りに行く約束だったよ」
 みいが言うには、公園で待ち合わせする話だったようだ。母親にも了承を得ていたらしい。まるで思い出せない。
「待ちくたびれちゃったよ。お兄ちゃん一生来ないかと思った。やっとお祭りに行ける」と、みいは嬉しそうに話した。
 妹が外へ遊びに行くとき、必ずそばに親がついていた。私はいつも邪魔者だった。あまり妹と一緒に外へ連れて行ってもらえなかった。ましてや妹と二人きりなど親が許すわけがないはずだ。私の知らないところで母親と妹が何かしらの約束をしたのだろうか。妹が死んだ日は祭りの日だった。妹はやたらはしゃいでいたように思う。地区のお祭りは主に小学生を対象にしており、妹にとっては初めてちゃんと参加できるときだった。少ないお小遣いで何を買うか悩んだり、鉦を鳴らすリズムを何度も復習したり、妹は起きたときからお祭り気分だった。私は太鼓を叩くために山車に乗らねばならず、それが憂鬱でしかたがなかった。起きる時間を過ぎてもぐだぐだとベッドで寝っ転がっていると妹がノックをして部屋へ入ってきた。妹は私を起こしに来たようだった。例年、午前中に山車を運び、お昼に一旦休憩。夕方からお祭りが始まる流れだ。渋々ベッドから出て、太鼓を叩いた。その後は、疲れて早くに眠ってしまったように思う。次に目が覚めたときにはもう妹は死んでいた。
 先ほどまで公園で遊んでいた家族連れがどこにもいない。私が目をつぶっている間に、みんな帰ったのだろうか。公園の中が変に静かだ。ジャングルジムが寂しそうに影を落としている。
 公園の茂みの合間をすり抜けてみいは公園を出た。幼い頃からこの公園でよく遊んでいたが、こんな出口があるなんて知らなかった。周りが草木に覆われているところにぽっかりと穴がある。小動物がようやく通れるくらいの道に見えたが、足を踏み入れると思っていたよりも広く気持ちが良い。風が通り抜ける。ひんやりとした空気は、囲われた草木によるものだろう。しかし葉っぱが頬を刺して少し痛い。痛みを感じたところに触れると擦り傷ができていた。
 みいは迷わずまっすぐ歩き続ける。屋台が並ぶ一番賑やかな通りを目指しているらしい。先ほどまで照っていた太陽は沈み、街灯も少なくフクロウの鳴き声が響き渡る。田舎の夜だ。懐かしく思った。
「みいは今日までずっと公園にいたのか」  
「たまに散歩したりブランコしたり、あと新しい友達もできたよ。でもみんな最後はどこかに行っちゃうの。私が怖いみたい」
 みいは口を曲げて肩をすくめた。漫画のように愛嬌のあるみいの仕草に思わず笑ってしまう。  
「お兄ちゃんは何をしてたの」
「私は……」  
 みいがきらきらした瞳で私を見るので口ごもる。
「中学校に行った?いとこのゆうたくんみたいに黒い服着たの?」  
「うん」  
「いいな。私も中学校に行ってみたいなあ」    
 そう言うと、私の手を強く握った。悔しいのだと思う。
 私は何をしていたのだろう。会社に通って帰宅して、会社に通って帰宅して。それ以外の時間は何をしているのかわからない。寝ていても起きていても同じ。誰かと会うこともなく、どこにも行かない。郵便ポストから広告チラシが溢れていた。床に落ちる髪の毛に気づいても拾わない。シンクは物置となった。洗濯物が山をなして着る服がなく、コンビニで衣類を買い足す。蒸して散らかった部屋では呼吸をするのも難しかった。そういうことを妹は理解しないだろう。  
 みいが目指している場所は私も知っている場所のはずなのに、全く知らない道を歩いていた。黒い街灯が毒々しい紫の光を放つ。道路に書かれた「止まれ」の文字はすべて「進め」になっており、停止線が水性絵の具に水を垂らしたように滲んでしまっている。家は異様に細長くて絵本に出てきそうな尖がった屋根をしている。かびてしまい、壁が緑の家が多い。乗ってきたぼろい電車には蛍光インクでペイントがされており、ところどころに真っ赤な染みがあった。子供が見たら泣き出しそうな雰囲気があるが、みいはへっちゃらだ。先ほどからずっと鼻歌を歌っている。小学校1年生の音楽の授業で習った曲。ままごとのときに歌っていた曲。
 幼い頃、暇があると妹はすぐに私の部屋をノックして、ままごとに付き合わさせた。私は父親役を任されることが多かった。妹はペットと母親と息子の3役を器用にこなす。幸せに溢れた家庭。陳腐な遊び。妹がキャッキャッと笑う。妹が演じる母親はいつも鼻歌を歌っていた。はじめこそ付き合ってあげるものの、妹の描く「家族」に私は無性に腹が立っていた。あるとき、私は持っている父親役の人形で、他の人形、椅子やテーブルを模したおもちゃをぐちゃぐちゃにひっくり返した。怪獣のように暴れた。「こんなの嘘だ」と私が言うと、妹はなにも言わず悲しそうに人形をまとめて部屋から退出した。それ以降、ままごとをするときは学校やお店が舞台で、家庭を舞台にすることがなくなった。
 屋台が立ち並ぶ道に出た。どの店も布の色が抜けてしまっている。穴が開き、引き裂かれている。鉄骨は錆びて今にも崩れ落ちそうだ。それにもかかわらず、トイカメラを通して覗いた景色のようで、不自然に鮮やかだ。気味が悪い。店の前を歩いても店主の顔は暗く影が落ちて見えない。影の下に人間の顔が存在しているかも怪しい。手招きをする指は日焼けや泥で茶色く、ごつごつとしていた。長く理不尽な仕打ちに耐えて仕事をしている人の手だと思った。いつか私もあの手のようになるのだろう。
「おいでおいで」
「安いよ」
「亀を釣って1万円!」
 などと、威勢の良い言葉が飛び交う。私以外の客はいない。発された言葉はどこにも届かず地面に落ちるばかりである。
 みいはアッと小さく言うと、私の手をひっぱってある店へ小走りで向かった。 金魚すくいだった。みいは水槽の前にしゃがみ込んで、泳ぐ金魚に夢中になっている。
 家族でお祭りに出かけた際にも妹は金魚すくいをやりたがった。しかし両親の許可は下りなかった。金魚を飼いたくないためだった。妹は引き下がらなかった。何度もやりたいと言った。金魚すくいの前から動こうとしなかった。「言うこと聞けない子は置いていきますからね」と母親に言われ、半べそになっても動かない。そして両親は本当に妹を置いていく素振りを見せた。すると妹は右手に母親、左手に父親の手を握り、全体重をかけて両親を引き留めた。妹がここまで頑固に我儘を言うことはあまりなく、驚いた記憶がある。妹の必死な顔を見ていると、奇妙な気持ちになる。私の我儘は一度も叶ったことがない。もちろん、金魚すくいもやったことがなかった。うらやましいと思っても私にはできないことだと思っていた。妹のこの行動が憎くもあり、切なくもあった。  
 結局、あのときは金魚すくいはできなかったはずだ。もうはっきりとは覚えていない。妹は泣き疲れてしまったのか、帰り道には父親の背中で眠っていたように思う。私は一度も両親と手をつなぐこともなく、屋台で遊ばせてもらうこともなかった。私はこれまで一度も金魚すくいをしたことがない。
「金魚すくい、やる?」
「え!いいの!私、金魚すくいやりたい!」  
「いいよ」  
 顔の見えない店の人にお金を支払い、金魚のポイを私と妹の分もらった。
 紫色の金魚、尾びれが長い金魚、目が3つの金魚、体毛に覆われた金魚、右手の生えた金魚、猫の落書きがされた金魚……。水の色は濁って、全ての金魚の様子が見えない。見た目以上に深いように思う。誤って腕を入れたならば、そのまま全身が飲み込まれてしまいそうだ。そして金魚の餌になる……と思わせるおどろおどろしい雰囲気があった。  
 みいは楽しそうに金魚を掬おうとする。失敗しても何度も挑戦する。そのたびに悔しそうな声を出す。  
 私も一緒に金魚を掬う。狙いの金魚をポイの上に乗せて水面から出そうとすると、金魚は私の方をぎょろりとにらみ、舌打ちを打った。そして腰を大きくうねらせてポイを破って水の中へ戻っていった。どぶんと水が跳ねて私の服は汚れてしまった。  
 そうこうしている間に、みいは一匹捕まえたらしい。金魚袋に入れてもらって上機嫌である。金魚は少し血を吐いて小さく弱々しい。  
 右手に金魚を持ち、左手は私の手を握って、屋台を見て回った。その間、みいは驚くほどよく食べた。じゃがバター、からあげ、わたあめ、焼きそば、そして今はたこ焼きをはふはふと頬張っている。金魚すくいの店と同じように、どこも薄暗く怪しい。からあげは腐った匂いがした。わたあめは灰のようだった。たこ焼きの中からピンク色のゴムボールが出てきたが、みいはラッキーと言ってゴムボールを口の中で転がしたのちに跳ねさせて遊んだ。みいがほほ笑むたびに私の頬も思わず緩む。こんな風に何も考えず笑って過ごすのは久しぶりだった。私が笑うのを確認すると妹は安心したようにほほ笑んだ。幼いながらに優しくて気を遣う子だったということを、お祭りの最中に何度も私の表情を確認する妹の様子を見て思い出した。
 妹と一緒にいると嫌なこともあったが、楽しいことだってあった。私は誕生日プレゼントをもらったことがなかった。同級生が遊ぶゲームが欲しくてほしくてたまらなかったのに、私の両親は決して私にゲームを買い与えなかった。
 妹が私の部屋にいるときに、何気なく「ゲームがやりたいなあ」と呟いた。すると妹は言った。
「次の私の誕生日にね、ゲームを買ってもらうの。お兄ちゃんにも貸してあげる」
「本当!?」
「うん!約束だよ」
 そんなやりとりがあったはずだ。そして本当に妹は誕生日にゲームを買ってもらっていた。私のやりたかったゲームソフトも一緒だった。妹はままごとをやりにくるのと一緒に、ゲームを持ってきて私に貸してくれた。妹はゲームが下手だった。ほとんど私が進めてあげたのだった。妹はゲームなんて興味なかったと気づいていた。私のために誕生日にゲームをお願いしたのだろう。ゲームができる喜びと年の離れた妹に情けをかけられる惨めさの間で、当時の私はそれまで感じたことのない複雑な感情を胸に抱いた。どうにもならず、妹がゲームを持って部屋から出ていくたびに枕を殴った。枕をだめにして親に怒られた。それでもゲームは楽しかった。
 その後もふらふらと静かな祭りを二人で楽しんだ。みいは私の手を離すことなくずっと笑っていた。りんご飴を食べながらみいは話す。
「私ね、実はお母さんにもお父さんにも言わなかったんだ」
「なんのこと」
「今日お兄ちゃんとお祭り行くこと。嘘ついたの。お花に水をあげるって言って外に出て、水をあげたあとにね、そのまま黙って公園までひとりで来た」
「なんだ、部屋で寝てる私を呼んだらよかったのに」
「お兄ちゃんの部屋、もう入っちゃだめってお母さんに言われてて、二人が家にいないときにしか入れなかったんだよ。知らなかったの」
「知らなかった」
「だから、お祭りの朝、すごく早起きしてお兄ちゃんに一緒にお祭りいこうねって言ったの。バレたら怒られちゃうからね」
「そうだっけ。みいが部屋に来たとき、そんな朝早くなかったよ」
「それはお兄ちゃんが忘れん坊だからだよ」
 みいは私をバカにするようにいたずらに舌をぺろっと出した。みいの可愛らしい表情をいつまでも手をつないで見ていたいと思った。

 夜も深まってきた。みいはそろそろ花火の時間だねと言った。花火は公園で行われるらしい。この地区のお祭りに花火はなかったはずだ。私が実家を離れている間に花火を打ち上げるようになったのだろうか。夜は大人の時間だった。    
 祭りの夜の一大イベントはカラオケ大会だった。簡易的な舞台が公園の真ん中に建てられて、その側面には紅白幕が垂れ下がる。公園の飾る提灯はすべてこの舞台に集中するように取り付けられていた。舞台の脇に演目一覧が手書きで書かれており、そこには市長の名前や酒屋のおじさん、近所のおばさんの名前が載っていた。彼らは自分の持ち時間になると舞台に上がり、観衆に見られる中、大音量のカラオケ機で歌を歌う。それがとてつもなく酷いのだ。誰一人、うまいやつがいない。今にも死にそうな声、音程が取れていない、酔っ払って何を言っているのかわからない。それでも歌を歌う人々は楽しげであるし、周りはひゅーひゅーなどと囃し立てる。幼かったころの私には、その様子がひどく恐ろしかった。通学路ですれ違うネクタイを締めた真面目そうなおじさんが今日は顔を真っ赤にしてへたくそな歌を歌っている。悪魔か何かに体を乗っ取られて暴れているのではないかと思うほどだった。例外なく出演者たちは別人のように乱れる。私の知らない大人の顔があった。
 大人になり、祭りの夜以外にも「大人」が乱れる場面に遭遇してきた。私はいつも蚊帳の外でその様子を眺めている。今でも薄気味悪く恐ろしい。どうしても一緒になって乱れることはできない。その場にいるのも苦痛で、会社の飲み会は極力避けるようになった。
「みい、夜はカラオケ大会でしょ」
私は諭すようにみいに話しかける。
「そうなの?花火があるんだよ」
みいはきょとんとした顔をする。
「花火もあるかもしれないけど、カラオケもあるんだよ」
「うん」
「だから、夜の公園には行きたくないよ」
私がそう言うと、みいは驚いたように目を大きく見開いた。まるでこの世の終わりのような顔だ。
「お兄ちゃん、一緒に公園に戻ってくれないの?」
言葉尻が震える。みいが泣き出すときの前兆。
「だって、お兄ちゃん、一緒にお祭り行くって約束したよ」
「金魚すくいしたでしょう、たくさん食べたでしょう」
「花火もお祭りだよ」
「花火なんて知らないよ」
みいの目から涙がぽろぽろと溢れてくる。みいの声が震えながらも大きくなってくる。
「みい、花火見たい」
「見たらいいよ。私は見ないよ」
「やだ。お兄ちゃんと見るの」
 私が首肯しないため、みいは文句を言い続けている。悲しみと怒りを露わにしたみいのキンキンした声に頭が痛くなる。金魚すくいをさせてもらえなかった日のように我儘だ。私がみいの目をじっと見つめていると、みいも負けじと私の目を睨むように見つめる。私の要求が拒まれるのは不当だと言いたげな視線である。くらくらしてくる。
 みいは私の両の手を強く掴んだ。
「お兄ちゃんが花火見てくれないなら、嫌いになっちゃう」
「一緒に花火見てくれるって言うまで、ここから動かないもん」
「絶対お兄ちゃんと花火見る」
 みいは全体重をかけて立ち去ろうとする私の手を掴んでいる。腕がもげそうだ。小学校1年生の力とは思えない。
「だって、お兄ちゃんどこ行くの?この後、用事あるの?花火見ようよ。きれいだよ」
「みい、やめて。腕が痛いよ」
「やめない。花火見るって言ったらやめる」
「見ないよ」
 みいはひどく頑固で、思わず私も意地になってしまう。
「見るの!お兄ちゃん、花火見なかったらまたひとりぼっちだよ」
「お兄ちゃんは私と一緒に花火を見るの」
「見ないよ」
「みいもお兄ちゃんもひとりぼっちじゃなくなるよ」
 みいの言っていることがわからない。
「もう寂しくないよ」
 頭が痛い。なんでこんなにも花火を見たがるのだろうか。
「お兄ちゃん、お母さんとお父さん好きじゃないってみい知ってるよ」
「どこにも行く場所ないんでしょ」
「ここで一緒にいよう」
「みい、花火見たいもん」
「お兄ちゃんの花火だよ」
「みいとこれからもずっと一緒にいられるんだよ」
 みいの話す声はみいの口から出ているはずなのに私の脳内に直接響いてくるように聞こえる。反響し続ける言葉に吐き気さえ覚えてくる。みいのひたすらな訴えを理解できない。みいの小さな体からは想像できないほど強い力がずっと私の腕にかかっている。小さな爪が手の甲に食い込んで痛い。みいが持っている死にかけの金魚がバタバタと暴れる。こめかみの辺りがずきずきとする。
 耐えられず私はみいに掴まれている両手を思いっきり振り解いて、みいの体を押して突き飛ばした。みいは短く叫び声をあげて、尻餅をついた。その拍子に金魚袋は口を開いて水とともに金魚が飛び出てしまった。ぱちぱちと地面を空しく跳ねる。
 みいは、私をキッと強く睨んで言い捨てた。
「お前はずっとひとりだ」
 その言葉が頭の中で反響し続ける。本当にみいの言葉だったのだろうか。何か得体の知れない女の声のように聞こえた。何度も何度も「ずっとひとりだ」と頭の中の女は私に囁き続ける。地の底から響いて私の全身をその言葉で襲う。私は目の前がちかちかとして立っていられなくなる。私は呻きながら耳を塞ぎ、目を閉じてその場でしゃがみこんだ。全身が凍り付いたように硬直し、指先が震える。苦しい。

 目を開けると真っ暗な公園のベンチで座っていた。何時なのか分からない。じめじめと暑く気持ち悪い。
 公園には誰もおらず、木が揺れて不気味な音を鳴らす。曇って星も月も見えない。洋服の汚れた部分が下水道のような匂いがして不愉快である。 全身が汗でぐっしょりと濡れており、力が入らない。しばらくその場で休んでから、リュックを背負ってベンチを発った。花火は打ちあがらなかった。
 公園の出口を向かう途中、何かを踏んだ感触があった。スニーカーの下には、みいが掬った金魚がいた。私はそれを強く踏み潰した。  
 まだ夏は続くらしい。