「愛」への執着と諦観

人間は愛に飢えている。それは孤独の治癒には必ず愛が必須条件であるからだ。しかし「愛」は他者(自分ではない何か)の眼差しなしには成立しない。すなわち持たざる人間の多くはそれを求めても逆に孤独の輪郭を削り一層一人を自覚する。とても恐ろしい特効薬なのである。
「愛」の厄介な点は他者に由来することである。大事なので重ねて強調する。社会的動物である人間は、個人だけでは自立していくことが非常に困難な生物なのだ。唯一無二性を持つ「個」の人間は、その性質ゆえに社会を営みながらに孤独しがちである。そのわかりやすい解決方法が社会に帰属することである。学校、家族、会社あらゆる社会的グループに己を還元することで「個」を認めてもらうための足場を築き安住できる。これが現代社会の基本的概形を構築している。
「愛」とはそのような社会が出来上がる核である。人間が社会的動物として生き延びる前から存在する「個」と「個」の結びつきである。すなわち、何かの社会に属するというラベルは現段階では、人間が生きるための必要最低限のライフラインである。
しかしこれはあくまで「愛」を擬似的に体験する箱物にすぎない。社会に属しながらにして孤独を認めざるを得ない違和感は、人間が元来求める「愛」を必ずしもその集団が反映できてないからなのだ。
では私たちに燻る「愛」への欲求はどのようにして満たされていくのか。愛への欲求は愛されたいと愛したいの大きく二つに対別される。愛されたい欲求の多くは「愛」=「個」を認めてほしい欲である。己は「個」であり、その状態が社会の愛される基準に反する時にありのままを受け入れてもらいたいというエゴである。これが満たされないと人間はメランコリーに陥る。とある作中に登場する聖女テレサの言葉によると、メランコリーとはなんとしてでも自分の意志を貫こうとする欲求である、とする。自明であるが、この欲求に効くのは他者に受容される瞬間を得ることだ。
対して愛したい欲求とは「個」が社会に溢れていることを認めたい欲求である。但し書きになるが、ここでの愛したいという願望は特定の「個」に向くものでなく、数多ある「個」を認めることで自己の「個」の正当性を訴える目的に行使されるものだ。近年のアンケートによると、この「愛されたい:愛したい」の比率は大体3:1の割合で持っている人がいる。
自己を受容できるようになるという結果は同じであるが、その過程が異なるのが、愛したい・愛されたい、の差異である。
さて、このように「愛」を二つに大別したのは、実のところ昨今の恋愛という人間の関係性を語るためにあった。批判を承知で晒してしまうと、これまでの男女における恋愛は、男性は「愛したい」・女性は「愛されたい」の構造だったのではないかと推測している。男性が能動して進め、女性が受動的に受け止める恋愛へのステップはこうした暗黙の構造を持ってして行われてきたのだ。近年の恋愛離れが加速しているのはこういった構造の崩壊が関係しているのではないだろうか。
ここで先程紹介したアンケートに立ち戻る。男女はおよそ平等に1:1でいるはずである。しかしアンケートでは愛したい:愛されたいの割合は均等ではない。これは①男性が愛することよりも愛したい欲求を強めている②もともと愛したい男性は多くなかった③アンケートに信憑性がない④私の推測が間違っている、のどれかに要因があるわけだが主たる要因が③④だった場合この文章自体がフェイクである。(故にこの先を書き進めることができなくなるので、この可能性については消去させていただく)要因が①であるにしろ②であるにしろ、男女のバランスと「愛」への欲求のバランスは崩壊している。(LGBTQ+が人口に占める割合は現在およそ10%と統計があるのでそれを加味したとしても、バランスは崩れているのである。)
こういった考察から過程は不明であるが、男と女が恋愛をするものだ、という観念は薄れつつあることは明確だ。ここの文脈の意味することは性別に関わらず「愛したい人を愛し、愛されたい人に愛されたいのだ」という意志の正当性が確信されている。
そして、私が抱く「愛」に対する諦観とは「愛したい人」という可能性がもたらす二人の世界の解体である。端的にいうと、「個」を認めたいのであれば、他者が一人である必要がないのだ。むしろ他者が一人であれば、数多ある「個」を見続けることはできない。このジレンマを自覚した恋愛をしたこれまでの「愛したい欲求を持つ人間」はこうしたジレンマを女性・あるいは男性に全体性を持たせるという手法を持って対抗していた。性別というラベルを貼り付けることで数多の「個」を一人に束ねていたのである。(この説明の詳細はまたとてつもなく長くなるので詳細を省くが、この考えは曰く稲垣足穂さんを参考にしている。)そのラベルさえ剥がされた今、私の目の前には無数の「個」が広がっている。
「人を愛する」というのはもっと単純で、ただ愛したい人だけを見ていればいいのだ、という意見は最もであるが、私に眠る愛したい欲求は数多ある「個」を認め自己を容認することに由来する。だからこそ結婚という概念に二人の世界の構築を許可し、それが世間に流布されている事実に、愛したい欲求を重ね合わせることができない。だからと言って渇望する「愛」を手放しては生きていけないどうしようもない人間がここにいる。

私はこの「愛」への渇望を満たすことができるのだろうか。

否、実践できる見込みがないから、この拙文は「愛への執着と諦観」と名付けたのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?