【短編小説】私のオトモダチ

 気がつけばみいこはひとりぼっちだった。

 幼稚園の頃から結月とは親友で何をするにもどこにいくにも一緒だった。小学校に入ってからは菜摘とも仲が良くなって、三人でいることが増えた。もう五年生にもなるが、みいこにとってふたりさえいれば十分で、他のクラスメイトとほとんど会話をしたことがなかった。する必要がないとすら思っていた。ふたりがいればみいこの世界は明るくて優しく、十分に満たされていたからだ。

「みいこと菜摘と結月はずっと一緒だからね」

 そんな約束をしたのは五年生にあがる直前の春休みのことだった。新学期が始まって数日。結月が急に学校に来なくなったと思えば、家の都合で転校することになったと担任の鈴木先生がHRで告げた。それから一ヶ月もしない間に菜摘も父親の転勤に伴い転校が決まった。みいこには何も知らされないまま、ふたりは学校を去った。

 世界が沈むのは一瞬のことだ。おいしいお菓子も大好きなアニメも限定のおもちゃも特別な友達もすぐにいなくなってしまう。今から新しく友達を作ろうにもすでにグループが完成してしまっているし、数える程度しか会話をしたことがない同級生の輪に入っていける自信がみいこにはなかった。放課後のチャイムと同時にランドセルを背負い、逃げるように教室を飛び出す。なんて惨めなのだろうと思った。なんて惨めなのだろうと思った。ふたりのことを親友だと思っていたのはみいこだけだったのか。引っ越すことを教えて貰う事もなかった。ふたりは自分と別れることが悲しくないのか、さみしくはなかったのか。きっとクラスの女生徒は自分のことを笑っている。ひとりになって誰とも話すことがなくなった自分のことを、ふたりがいなくなったら何もできない邪魔な子とでも思っているだろう。妄想ばかりが膨らんで、存在しない敵を作っていく。顔を伏せたまま、一秒でも早く家に帰りたくて走る。車のクラクションが聞こえて、信号の存在を思い出す。横断歩道を戻って、やっと顔をあげた。少し前まで蝉が鳴いていたと思ってたのに木々の青はくすみ始めている。季節が変わろうとしていることにまた切なさがこみ上げた。

「はじめまして、久井祐子です」

 転校というものはいなくなる者を指す言葉だと思っていた。突然教室に現れた知らない女の子のことを鈴木先生が「転校生です」と紹介をしたので、やってくることもあるのかと驚いた。

 久井祐子はどことなく親友ふたりに似ていた。肩まで伸びた栗色の髪は菜摘と同じだし、左目の下にあるほくろは結月にもあったものだ。ふたりと違ってアーモンドのような形の瞳はツンとつり上がっているし、吸血鬼のような八重歯が生えているのが目についた。似ているところがあるからこそ、違う女の子であることを嫌でも思い知らされた。

「みいこちゃん、教科書見せてくれる?」

 祐子はみいこの隣の席になった。元々結月が座っていた席だったので複雑な思いがあったが、鈴木先生の指示のため仕方がない。加えて以前の学校で使っていたという教科書が別のものだったので、新しい教科書が届くまで机をくっつけて一緒に見ることになった。「いいよ」と頷くだけなのだが、上手に言うことができずぎこちない動きになった。曖昧な返事のせいで嫌がられていると思われるのは心外だった。教科書の大きさだけ近づくと、祐子からじっとりと重く、どこか懐かしいような甘い匂いがした。

 初めの一週間、祐子はスターのようだった。初めての転校生を前にクラスメイトが様々な質問を投げかける。前にいた学校のこと、街のこと、好きな芸能人や好きな番組のこと。靴のサイズまで、聞いてどうなるんだというくだらない内容まであった。みいこはそれを聞きながらうんざりする。休み時間に次の授業の準備をしたいのに、逃げるようにお手洗いに行くことが増えた。特別用事もないので、意味もなく手を洗ってみたり鏡を見たりして時間を潰す。歪んだラグビーボールのような形をした自分の目を見て祐子の綺麗なアーモンドアイを思い出す。比べるものではないが、あの瞳が羨ましいと思った。彼女は唇も薄く人形のよう。自分のぽってりとした唇を少し噛んで理想の薄さを探していると、なんだか情けないような気持ちになってきた。まじまじと自分の顔を見ていたら知らない間に長い一本の眉毛が生えていて、気持ちが悪くてぷちんと引き抜いた。

 あっという間に「転校生ブーム」は去っていた。聞けばどんな質問にも「さあ」としか返さないためつまらないというのだ。口数の少ない子なんだろうとみいこは思った。一日中隣にいるが、声を聞くのは「教科書見せて」という時と朝の健康観察で名前を呼ばれた時の「はい」の返事だけだ。クラスメイトが祐子から興味を失うのは当然の流れで、あっという間にみいこと同じようにひとりぼっちになってた。

 みいこは今なら祐子と友達になれるのではないかと思った。祐子がどこコミュニティーにも属していないこと、自分とは事務的な会話と言えやりとりがあること。互いがクラスの中で一番仲の良い人間になれるだろうという希望があることが何よりも魅力だった。

「あの、久井さん」

 帰りの会が終わり、チャイムが鳴る。いつもであればさっさと帰宅してしまうところをぐっと堪えて隣の席でノートをランドセルにしまっている最中だった祐子に声をかけた。声も出さず、顔を上げただけで返事とする彼女の態度に一瞬怯んだが勇気を出して「今日一緒に帰ろう」と告げた。祐子は目を丸くして、二回ゆっくり瞬きをする。にっと笑って「待ってた」と言った。

*

 ジジジと名前も知らない虫の鳴く声がする。かすかに残る夏の気配を帯びた生ぬるい風がふたりの間を通り抜けた。一歩踏み出すたびに運動靴の底で砂利が小さく音を立てる。虫の声とセッションでもするようにジャ、ジャと音が鳴る度に気まずさが増していった。

「学校は慣れた?」

 無言が耐えられなくてやっとの思いで声にする。咄嗟に出た内容が先生や親のようだなと思って恥ずかしくなった。祐子は一瞬迷ったように目を泳がせたが、テレビもユーチューブもほとんど見ないので回答に困って曖昧な返事をしていたら上手く仲良くなれなかったと眉を下げた。

「みんなとおんなじものを見ているのが偉いわけじゃないのにね」

 みいこの言葉に祐子は安心したように笑った。

「知らなくても良いの?」
「私もよく知らないんだもん」

 菜摘と結月がいなくなってしまってから、テレビやユーチューブを見る習慣がなくなってしまった。ふたりと話せないのであれば、共通の話題を作る必要がない。だから最近クラスで流行っているものの正体がよくわからないのだ。

「そうなんだ、一緒だね」

 にっと笑った彼女の顔が、もう学校にいないふたりを思い出させる。笑うと目元のほくろが笑い皺に飲み込まれて見えなくなるところとか、右側にしかできないえくぼがよく似ている。ふたりの代わりとするつもりはないが、ふたりによく似た彼女と仲良くなれるなら、また学校が楽しくなるだろうかとドキドキした。

「うん、一緒」

 ぎこちない肯定はみいこにとっては大きな一歩だ。もう足音は気にならなくなっていた。

*

 新しい教科書が届いてからも、私たちの机の距離は他の子よりも少し近いままだった。お昼になったらその距離をゼロにして、休み時間が終わるとまた少し離す。放課後は手を取り合って一緒に帰る。菜摘と結月が転校してしまう前のように、みいこの世界はゆっくりと明るくなっていった。

「今度のお休みの日って予定ある?」

 もしかしたから彼女はみいこにとっての親友になってくれる人なのかもしれないと淡い期待を浮かべ始めたある日、おにぎりを頬張りながら祐子が問いかけた。みいこは口元まで運んでいる途中だったからあげを弁当箱に戻して予定を思い出す。土曜日はそんばん教室が午前中にあって、午後は母親の買い物の付き添いの予定で、日曜日は朝のアニメを見たらその後は何も予定がない。

「日曜日なら何もないかも」

 もう一度からあげを捕まえて、今度は無事に口の中へと案内する。にんにくの香りがふわりと広がって鼻を抜ける。冷たくなったお肉も噛めば柔らかく、肉の甘みが残っているうちに白米を口の中へと詰め込んだ。

「一緒に来てほしいところがあるんだ」

 それがどこなのかは教えてくれなかった。「みいこちゃんだけ」という言葉を聞くとどんな予定があったとしても祐子を選びたくなる。

 建前上「お母さんに聞いてみる」と答えは明日伝えることにした。

「きっと許してくれるよ」と祐子はにっと笑った。

「そうだといいなあ」

 みいこはぼんやり呟く。祐子がおにぎりにかぶりつく。中の具がおかかであることがやっとわかった。

*

 日曜日は晴天だった。

 祐子の言う通り母親はするりと許しをくれた。待ち合わせの場所に向かうとすでに祐子が待っていた。真っ白な七分袖のTシャツに膝が隠れる程度のハーフパンツを履いていて、すらりと伸びた脚に桃色の靴下が映えている。土汚れでくすんだ水色の運動靴はどこかで見た覚えがある。誰かのと同じだっただろうか。つま先で小さな石ころをつついて暇を持て余してるようだった。

 みいこは点滅し始めた信号に焦りながらもめくれていたジーンズの裾を直すためにしゃがみ込むと、おろしたての真っ白な運動靴に陽が反射して、目を細めた。祐子の名前を呼んで、赤になる前に駆け寄る。どこに何をしに行くのか何も知らない。ほんの少しの不安があったが、祐子と一緒ならどこでも楽しいのだろうという確信があった。

「行こう」

 いつもみたいににっと笑って私の手を引く。普段一緒に帰る時よりも歩くのが早い彼女に置いて行かれないように走るみたいに歩いた。祐子がそんなに急いでまで自分を連れて行きたい場所とはどんなところなのだろう。ドクンドクンと心臓がはねる。期待の高鳴りなのか、早歩きをして身体が疲れてきているだけなのかわからなかった。

 町中から少し外れた木々が生い茂る山の中へと入っていく。母親や鈴木先生に行ってはいけないと言われていた場所だ。祐子の名前を呼んで、進む足を止めようとするが聞こえていないのか止まる気配はない。足を止めない祐子にも、約束を破ってしまっている自分にも怖くなって、泣き出しそうになる。みいこはぐっと下唇を噛んだ。

 不意に雨の日みたいな甘くうだるような匂いがした。つい最近も嗅いだ匂いだった。どこでだっただろう。じめじめとしたこの場所には見たことがない石碑のようなものが立っていた。苔がびっしりと生えていたので何が書いているのかはわからなかったがお墓のようだと思った。

 祐子の足が止まる。みいこは「ここ?」と問いかける。祐子はにっと笑う。

「私のおうちなの」

 まさかそんなわけがない。人が住めるような場所には見えない。思わず辺りを見回す。木々は色づき始めていたはずなのに、どれも青々として瑞々しい。じっとりと重い空気と匂いは湿度のせいだろうか。自分の身体も重くなっているような感覚があった。

「みいこちゃんは特別なオトモダチだから招待したかったんだ」

 祐子が嘘をついてからかっているようには見えなかった。背中の産毛を這うように汗が伝っていったのがわかる。みいこは祐子の言葉を繰り返す。

「特別なお友達?」
「うん、シンユウっていうんだっけ」

 もし、昨日同じ事を言われていたら飛び上がるほどに喜んだことだろう。みいこも祐子と親友に鳴りたいと思っていた。ただ、今は。

「シンユウはずっと一緒にいるんだよね」

 祐子がみいこの手を取る。その手に温度はなく、じっとりと濡れている。喉が鳴った。怖いと思うよりも前に自分の身体が震えていることに気がついた。

「私は嘘なんてつかない。言葉通りずっと一緒にいてあげる。結月ちゃんと菜摘ちゃんと同じように」

 祐子からふたりの名前が上がって驚く。知っているはずがない。一度も彼女たちの話をしたことなどないのだ。

「ふたりを知っているの?」
「ふたりともシンユウなんだ」

 祐子がにっと笑う。みいこの手を包んでいた手が頬に伸びた。手の平が触れているはずなのい幾重ものツタが頬を這っているような感覚がある。「ひ」と声が漏れる。次第に祐子の手の平全体が植物のようにうねって人の形を失っていく。

「やだ、助け。祐子ちゃ、うぐ」

 ツタは頬から耳へと伸び、鼻や口を覆っていく。呼吸が上手くできず、だらりと口元から唾液が流れていくのがわかった。じっとりと甘い、土と草の汁や木の匂いがして、ああ、彼女ははじめて会ったときから人間の女の子の匂いはしていなかったのだと納得した。

「これでみーんな一緒だね」

 祐子の声が頭の中で響く。全身がぎゅうと締め付けられるような圧迫感の中、あたたかいなと思いながら意識を手放した。

 大きな緑色の球体がそこにあるだけで、ふたりの姿はどこにも見当たらない。みいこの履いていた真っ白な運動靴が薄く黄色や緑に汚れて転がっていた。

*

「突然ですが、山内みいこさんが転校することになりました」

 事務連絡のように淡々と鈴木先生が告げる。教室内は特にざわつく様子もなく、その言葉を受け入れた。何もなかったかのように朝の会が始まる。主を失った席の隣で、厚ぼったい唇をにっと歪ませて祐子が笑った。 

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