2024.06.09
少し日記の感覚が開いてしまった。
また細々になるだろうが再開していきたい。頑張るね。
今月からという半端な時期に異動があって、新しい業務を請け負うことになった。それがまた自分の性に合わなくてたった一週間なのに根を上げそうになっている。給料を時間で割って、1作業分の金額を計算して心を保とうかな。1作業何円と思うと業務を金額として視覚化できるので、気が楽になるかもしれない。なるか?
「真面目だね」と言われるのが苦手である。
苦手というか、トラウマというか。うまく言えないのだけれど、そういわれるのが本当につらい。
新しい環境になって、数日経って、新しい上司にも「真面目だね」と言われた。「もっと肩の力を抜いていいよ」という意味での発言であることはそのあとに続いた言葉で理解はできたものの、ずんと心にのしかかり、苦しくなって曖昧に笑うことしかできなかった。
大学生の頃「真面目なんだね」と言われた。
頭が固いとか、自分の殻を破ることができないとか、そんな意味と共に告げられた言葉で私の今までが否定されたような気がした。
制服のスカートを折ったことがない。
胸ポケットにしまった生徒手帳を読みこんで、肩にかかる髪は必ず結んでいた。小学生の頃から5分前行動は当たり前で、何かしらの長として活動することが多かった。
真面目であることが正しいはずだった。規則の通りに動くことが求められているはずで、私はそういう意味でまっすぐ真摯に生きてきたつもりだ。
高校を卒業して、芸術系の大学に進んだ。
一定のルールというものから逸脱して自分を出すことが求められた。
取り繕った自分ではなく、砕けた内を見せることだったり、かしこまりすぎないことだったり、いまだに言語化しにくい感覚ではあるのだが、そういったことを求められた。
その「取り繕っていない自分」というのがわからないまま、大人になった。
勿論プライベートの私と職場での私は別物で、プライベートでは取り繕うことなどほとんどない。しかしながら、仕事の際にその私でいることはできない。これが真面目といわれる理由のひとつなのだろうか。
相手を知らないままに仕事で会話をするのは失礼だと思ってしまう。最低限だけで、会話の中でうまく知ればいいのだと上司はいうが、そのような器用なことが私にはできない。特性によるものも多少なりとも影響しているのは理解していて、それを伝えるすべがなく「不安」という言葉で包んでしまう。
「綺麗なものを好むよね」
学生時代に言われた言葉の中で、一番心に深く刺さって抜けなくなっているのがこの言葉だ。当時、淀んだどろどろとした感情を孕んだ小説作品が苦手で具合が悪くなってしまうのだという話をした際に言われた一言だった。
私が苦手な作品を好み、そのような作風で戦っていた彼らは教授からの作品評価も高く、当時の私にとって「評価されている彼らとの差」を見せつけられ、地の底に突き落とされたような感覚になったのだ。
汚れること、穢れを知ることが美しいとは思えないが、進んでそのようになれない私のままで、上手に生きていくこともできないのではないかと「真面目だね」と言われるたびに心をむしばんでいく。
「綺麗」と「真面目」は似ている。
同じように私を殺す言葉になっている。
本来であればきっと、褒められる言葉であるはずなのに、私にとっては大きな刃なのだ。どうしたら私は「真面目」から抜け出せるのか。
この場合において「真面目」の遂になる言葉は「非行」とか「不真面目」ではない。だからこそどうしたらいいのかわからない。私が今の年齢まで培ってきたものがどうやってもうまくかみ合っていかないことが、ずっと苦しい。私に「真面目」だと言わないでほしい。
本当は真面目なんかじゃないんだ。日々どうにかサボろうと業務の穴を探しているし、業務外に振り返りなんかしない。会議の最中に関係のないことをずっと考えているし、責任のある仕事はしたくない。それなのに「真面目」に見える行動をしてしまっているのがわからない。どうしたら息がしやすくなるのか教えてほしい。
明日もまだ暗中模索。
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