このまっさらなシーツを汚せないまま

会社で泣いてしまった。

心が弱い。少しのことで狼狽えて視界が潤んでしまうことがある。大体が泣くような事じゃない。少し優しい言葉をもらっただけでじんわり瞳が濡れることもある。ゆらゆらと揺らぐ心が不安定で、情けなくて嫌いだ。

営業職をしている。
元から少しばかり人見知りで引っ込み思案なところがある。向いてないと思う。

面接を受けた際、なんでもいいから仕事に就きたいという思いがあったこともあり、去勢を張った自覚はある。「人と話すの好き?」と聞かれて「はい」と答えた。嘘では無い。仲の良い人の前ではおしゃべりな方だ。私はこの質問を同僚と円滑なコミュニケーションを取れるかどうかのヒアリングだと思った。
求人サイトの要項には「事務職」「入力作業」などと書いてあったはずで、「営業」の文字はなかったから初日の研修で面食らった。

入社して数ヶ月が経った。
上司も同僚も優しい人ばかりで、不甲斐ない私を否定するような言葉をかけることは決してしない。それどころか、不甲斐ない部分も「私の良さ」とした上でよりよくするための提案をしてくれる。本当に素敵な方ばかりで恵まれていると思う。

それでも、会社で泣いてしまった。

綺麗が好きじゃ、意味がない

他人に寄り添い、目の前の仕事を丁寧にこなしていくこと。それが正しいと思って生きている。人見知りが災いか救いかはわからないが、砕けた態度で話すことへのハードルが高い。

「真面目」と言われることがコンプレックスになっている。学生の時分は褒め言葉だったはずなのに、大人になっていくにつれて「つまらない」とか「融通が効かない」などと言われているように聞こえる言葉に変わった。

きっかけは大学生の頃だった。

文章を書いて生きていきたいと思った私は、執筆に関して専門的に学ぶことが出来る大学に進学した。テーマに沿って小説を書いてはレポート代わりに提出する。一年次はなかなか評価は振るわず「C」を貰うことが多かった。

「キミは綺麗なものを好むよね」

ある日、同期の男子が私にそう言った。友人が撮影した餌に群がる大量の鯉の映像を見て眉を寄せる私に対する感想だった。

集合体恐怖症というわけではないが、水面の形が変わるほど沢山の鯉が人の手にむかって口を開ける。下のものは上のものを越えて餌を得ようと喘ぐ。ほとんど身体が池の外に出てしまって、びちびちと身を打つだけの物もいた。

それを気持ちが悪いと思い、一匹だけの方が好きかもと言った。

彼は「A」評価をよく貰う人だった。
感性の違いをその場で見せつけられた気持ちになった。私の感性では評価を得られるものを書けない。彼の良いと思うものを良いと思えない限り、私の表現は稚拙なままで彼らには追いつくことは出来ないのだと思った。思ってしまった。

同じくして、私は演劇の専門学校に通った。
当時から私は脚本を書きたくて、そのためには演じる側の気持ちを理解しなければと思ったからである。

「真面目すぎる。もっと内を見せて」

自己紹介の時に言われた言葉がまだ残っている。私は私のありのままのつもりだった。殻を破って、もっと解放して。そう言われる度に私を否定されている気持ちになった。素の私は、他者から見て真面目にうつるのだと知った。それを壊せと言われるのが、怖くなった。このかしこまってしまう部分をなくしてしまうと、私が私でなくなるような気がした。

歪なものを美とできない。
くだけた話し方とか、だるだるのTシャツとか、アイロンをかけず皺のついたスラックスとか、プリンになった髪の毛とか。それらが気になって仕方がない。
正しい日本語を使って、パキッとした洋服で、大きな声でハキハキと。髪はオイルで撫で付けてしっかりくくる。学生時代から教えこまれてきた「真面目」が、枷になっていく。

日陰者ゆえの武器だった

高校生になって環境がガラッと変わった。
上手く馴染むことができなくて、委員会や生徒会に入って教室にいないようにした。ひとりぼっちなことを理解したくなかったから。

人見知りの陰の者は、落ちこぼれることを嫌う。自分で自分の首を絞めていくのはやめたい。故に真面目でいることで可も不可もない人間になっていく。間違うことを恐れる。それを笑い飛ばせるような明るさなどない。空気になじめず、上手く立ち振る舞えないだけでなく、落ちこぼれるなど己の価値のなさを認めていくだけだ。

委員会や生徒会に所属すること、部長などの肩書きを得ることは己に価値があると思えることだった。正しく振る舞うことで、真面目で模範であることで生きていて良いと思えた。

修学旅行の日、夜更かしして話をしてるルームメイトの話題に入っていけず時間で寝た。
朝起きて「話しかけたらもう寝ちゃってて」と言われた。何を話したらいいのかわからなかった。でもそれが本当なら自らチャンスを潰したことになる。こういうことの繰り返しでつまらないやつだと思われていくのだろうかと思ったが、今更ぐいぐいいくのも上手く出来なかった。

やることがあれば孤独になることはない。おかげで卒業式の日に隣の席の女の子に「いつも忙しそうだったから話しかけるのやめてたんだ」と言われた。もう会えないタイミングでそんなことを言わないでよ。私は曖昧に笑うことしかできなかった。次の世界で同じクラスだったら仲良くしてね。

気がつくと、真面目でしっかり者で、仕事が早いことが私にとってのアイデンティティだった。
大学生になって、未成年のうちにお酒を飲まないとか、日付が変わらないうちに家にちゃんと帰るとか、人との適切な距離感を守るとか。正しいはずなのに、そんなことをしていたら色んな経験が遅れていった。

自分を守るための武器だった真面目さがコンプレックスになって、次第に弱さになった。

私は真面目な私が嫌いだ。

多分これは真面目という言葉で隠している、子どもが大人になっていく過程で必要な悪さとかイタズラのようなもの、私を作るための汚れのようなものがなく、生きてきてしまったことへのコンプレックスで、無知な自分を恥ずかしいと思う気持ちの表れなのかもしれない。

会社で泣いてしまったのは「真っ当に生きてきた表れが言葉遣いに出ている」と言われたことがきっかけだった。ハメを外せなかった人生、レールの上でしか動けなかった日々。真面目であることが正しく、それが武器だった過去。

それが視野を狭めていると知ってから、夜の街に憧れた。踏み入ることがやはりできなくて、眺めるだけのネオンの中に希望があった。

「真っ当に生きてきたこと」は、褒め言葉じゃなかった。後悔でしかなかった。泣くつもりではなかったのに、それ故に仕事が上手くいかない現状があると思ったら悲しくて悔しくて、気がついたら泣いていた。泣きたくなくてもこぼれ落ちていく。頭ではなく心が拒否したのだとわかった。


今日、少しだけ言葉を崩してみた。
「〜でしょうか?」と聞いていたのを「〜ですか?」とした程度のものを崩したと呼んで良いのかわからないが。
敬語を弱めたせいかわからないが、少しだけ気が楽になった。私のままで馴染んでいける方法を探している。

私を表す一枚の布がある。それが今真面目さで真っ白に見えているとして、その白は本当に元の布の色なのだろうか。もしかしたら私の白は後から塗り固めた白なのかもしれない。その下に本当の色があるのかもしれない。白こそが汚れの可能性もある。私自身を守ってきたはずの真面目さを、少しだけ剥がしてみたら、これから見える景色が変わっていくだろうか。

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