【短編小説】 隠して

 隣の席の藤森菜々子さんはマスクを外さない。学生証の集団撮影の日はお休みで別日に撮影だったし、昼休みはどこかに行ってしまうし、夏のプールの授業はアレルギーの関係だかで見学だった。初めは花粉症かと思っていたのだが、うだるような暑さの夏の日もマスクを着けたままだったので少し気味が悪くもあった。彼女の席は直射日光が当たる窓際の席なのに、汗一つかいていなかった。胸元まで伸びた髪を結わえることなく、背中に流し、時折重力に負けてはらりと前に垂れる。結わえたらいいのにな、なんて思うがそれを片手で払う姿が絵になる。見れたらラッキーだ。

 そんな奇妙な彼女は本の虫でもあった。授業や集会以外の空き時間にはいつも何かしらの本を読んでいた。むしろ本を読んでいない姿を見たことがないくらい、いつでも本の中に彼女はいた。本には夢幻書店のカバーがかかっており、どんな本を読んでいるのかはわからないが、そんなにも夢中で読んでしまうほどの本は何か気になった。

 あまりじろじろと見ているのも気持ちが悪いだろうから、彼女が窓際の席であるのをいいことに、天気を確認するふりをしてちらり、ちらりと見る。たまたま視界に入ってしまっただけで、藤森さんを見ようとしたわけではないです作戦だ。冷静になればこれはこれでキモい。冷静になどなるな。

「沼田くんは今日も藤森さんのこと見てんの?」

 俺にこんな意地の悪いことを言うのは笹本しかいない。肩に回された手を解きながら俺はこの失礼くんに一発チョップをお見舞いしてやる。

「そんなこと言うお前も見に来たんだろ」
「いやいや、藤森さんは素顔がよくわかんないからなあ」

 朝から失礼くんの失礼が止まらなくて感心した。笹本は根っからの面食いで、顔が好みの女の子を見つけては声をかけて嫌がられている。高校生活二年目にして女の敵として学校中で有名人なので、できるだけ仲良しに思われるのは勘弁願いたい。

「目元だけで恋できるほど俺は甘くないんだよ」

 どんなプライドだよ、と言いたかったが無視をしてページをめくる藤森さんの指先を見ていた。

 参考書を忘れたと気がついたのは、校門を抜けて暫く歩いてからだった。今から戻るには微妙名距離だが、明日の自分を思えば戻った方が絶対に良い。数学の村田先生は特別厳しく、課題をやらずに来たとバレれば厄介なことになるのは目に見えていた。一昨日課題をやらずに授業に臨んだ中野くんが授業中ずっと起立させられ続けた上に特別補習に呼ばれていたのを見ていただけに、あれが自分の身に降りかかると思うと耐えられなかった。

 午後六時を回り、校地内には部活動励む生徒がいるものの校舎にはほとんど誰もいないようだった。遠くから野球部のかけ声や吹奏楽部の楽器の音が聞こえてくる以外はシンと静まった校舎の中。普段は様々なところから聞こえてくる話し声や足音で溢れているのが当たり前なので、不気味に感じる。参考書くらいさっさと回収して帰ろう。教室のドアを開ける。誰もいないと思っていたはずの教室に人影があって思わず声が漏れた。俺の声に反応するように人影が揺れた。

「あ、沼田くん」

 声の主は目を細めて笑う。口元からやけに尖った犬歯が覗いているのが見えた。胸元まで伸びた黒髪と、机に置かれた夢幻書店のカバーがかかった本を見て、やっと声の主が藤森さんであることに気がついた。

「ふ、藤森さん? どうしたの、こんな時間まで」
「沼田くんこそ」

 質問に答える気はないようで、そっくりそのまま打ち返されてしまった。俺は「忘れ物」と情けない答えを提示して自分の席へと向かう。自分の席へと向かうということは、藤森さんに近づくということだ。一歩がこんなに重く感じたことはなかった。

 机の中に手を突っ込む。参考書を回収すると、わざとらしく藤森さんに見せつけるように小さく振ってみせる。それを見たのか見ていないのかわからないが、藤森さんが「まあ、いっか」と呟くのが聞こえた。

 急な妥協に混乱する。何が良いのだろう。藤森さんの言葉に様々な疑問が浮かんでは消えていく。やっとその中のひとつが音になりそうだという瞬間、背中に衝撃を覚える。肺から酸素が抜けて、声になりきらない音が喉から漏れ出た。何が起きたのか理解するよりも早く、首筋と胸元に違和感がある。藤森さんが自分の上にいて、押し倒されるような姿勢になっていたと気がついたのと、首筋を噛まれていると気がついたのはほぼ同時だった。

「ん、ごちそうさま」

 起き上がって、藤森さんが手の甲で唇を拭う。じんわりと赤く染まった唇の隙間から濡れた犬歯が見えた。回らない頭で考える。今、何をされた?

 咄嗟に首筋を押さえるが、怪我をした形跡はどこにもない。彼女の口元が汚れるほどの出血なら、自分の手も濡れるだろうが、そんな気配はなかった。

「傷はつかない仕様なの。少し貧血だろうからすぐには動かないで」

 恍惚とした表情、艶めかしく濡れた口元をなぞる指先。そのどれもが普段本を読んでいる姿から想像できないもので混乱する。

「君は、藤森さん?」

 彼女はくすりと笑う。ずいぶんと馬鹿げた質問だったが、一番聞きたいことだった。彼女は「そうだよ」と意地悪そうに続ける。

「私、吸血鬼なの」

 瞳が血のように赤く染まっている。彼女は人間ではないのだと察した。窓の外も真っ赤に色づき、目に映る赤は全て血液のように感じた。目眩がする。

「正確に言えばハーフ。だから日の光も平気だし、十字架も怖くないの」

 藤森さんがマスクを付け直す。血で濡れた犬歯や口元が隠れていく。視界から異常が消えていくことで呼吸がしやすくなった。マスクをした彼女はいつもの藤森さんの見た目になって、瞳の色も僕らと同じほんのりと茶がかかった黒に戻っていた。

 彼女は空腹を感じることがほとんどないらしい。昼休みに食事をとっている姿を見たことがないのも、実際何も食べていないからだそうだ。しかしたまの血液による栄養摂取は不可欠で、吸血できる存在を日々探しているようだった。不幸なことに彼女が空腹なタイミングで教室に戻ってきてしまった俺はまんまと餌にされてしまったということらしい。

「今日のことはちゃんと内緒にしてね」

 少しばかり強引に薬指を絡めて指切りをする。こんなにも怖い約束は初めてだ。

「あ、ああ」

 気の抜けた返事ではあったが満足してくれたようで、にっこりと笑って机の上に置いたままの本を手に鞄を背負う。

「そういえば、何読んでるの?」

 藤森さんは、どうしてそんな事を聞くのだろうというような顔をした。自分でもなぜ今そんなことを聞きたかったのかわからなかった。

「『罪と罰』」

 それがどんな話なのかは知らなかったが、彼女の表情を見て自戒のようなものを感じた。「また明日」と手を振る彼女に応えることができないまま、彼女の背中を見送る。部活の終わりを告げるチャイムが鳴るまで、俺はここから動けなかった。

 隣の席の藤森さんはいつもと変わらず本を読んでいた。昨日のことが夢だったのではないかと錯覚するほど自然だ。

「今日も熱烈だねえ、沼田くん」

 笹本が茶化してきたのもどうでもよかった。俺が反応しないでいると笹本が変に思考をつないでしまったようで「まさか、振られた?」なんて囁いてきた。そのあたりの配慮はできるやつだったらしい。

「そもそも告白なんてしてないよ」
「告白する前に撃沈するパターンだってあるだろ」

 ある意味でそのパターンだ。気になっていた女の子が人間でなかった時点で恋愛対象として見るには驚異すぎる。現に昨日襲われたばかりだ。帰宅した後に鏡を見たがそんな形跡は一切なく、少しばかり身体がふらついたが水分を摂ってゆっくり寝たらすっかり回復した。疲れでも溜まっていたのだろうと言われればその通りだと思ってしまうレベルの出来事だ。

「あのマスクの下が分かればなあ」

と、笹本が嘆く。赤く濡れた犬歯を思い出してぞわりとした。恐怖なのか嫌悪なのかわからない感情に包まれる。「知らない方がいいこともある」なんてかっこつけたことを言って、お手洗いに逃げた。

「マスク美人ってことなのか?」と笹本の最悪発言を遠くに聞く。女子たちからの制裁をくらってくれと願ったが、藤森さん自身も付き合いが悪いことを理由に女子たちからあまり好かれていないようだったので誰も気にしないのだろう。

「なんなんだ、一体」

 この首に噛み痕が残っていれば現実だと思えたのに、妄想を夢で見たと言われた方がずっとまともだ。鏡を見ても指でなぞってみてもそれらしき痕はどこにもない。彼女の歯の感触だけが、ずっと残っている。

5、マスクに隠した劣情


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