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【短編小説】お揃いの

 ゆらゆらと立ち上るほんのりツンとした甘い香りが、熱を帯びたまま鼻腔をくすぐる。手を合わせる度に感じるこの匂いがいつのまにか真琴の香りになっていた。

 真琴とは幼稚園の頃からいつも一緒だった。家が隣同士なこともあって、通園から帰宅までずっと一緒。手を繋いで園までの道のりを一緒に歩いた。親に強請って、お揃いの髪型やアクセサリーをつけて、まるで双子のようだと先生たちは笑っていた。神様は意地悪で私たちを違うクラスにしたけれど、そんなことはお構いなしと言わんばかりに私たちは一緒に遊び、食べ、眠った。真琴が私の名前を呼ぶ声が好きで沢山名前を呼んで欲しくて、わざと聞こえないふりをしてよく怒らせていた。砂糖菓子みたいな甘い声が、堅く鋭い音を出すのが心地よかった。その音が奏でるのが私の名前であることに愉悦を覚えていたのだ。

「千葉くんってさ、かっこいいよね」

 小学三年生になった私たちは、お揃いのキーホルダーが揺れるランドセルを背負って帰り道を歩いていた。最近好きな曲の話し、昨日見たテレビ番組の話し、動画サイトで流行っているチャンネルのこと。授業中の先生のものまね。そんなことの繰り返して成り立っていたはずの私たちの会話の中に知らない感情が落とされた。私は真琴の言葉の意味が理解できなくてワンテンポ遅れて「え?」とだけ返した。真琴は慌てたみたいに首を振って「今のなし」と誤魔化す。私たちはずっと一緒だったのに、勝手に私の知らない感情を知って、私の知らない表情を引き出した千葉くんに強く苛立ちを覚えた。

「好きってこと?」

 問う私の言葉に真琴が足を止めた。歩幅がずれたのに気がついて、私も二歩と半歩先で足を止める。振り返ると真琴が唇を震わせてこちらを見ていた。いや、見ていなかった。私ではない遠くを見ているような気がして、たった二歩半しか離れていないこの距離が果てしなく遠くに感じた。

 辞書によると恋というものは「特定の異性を強く慕うこと。切なくなるほどに好きになること」に対して使われる言葉らしい。切ないほどに好きだなんて詩的な表現で説明されても理解できないなと辞書を閉じる。覚え立ての言葉は私の身体に馴染むにはまだ時間がかかる。消化し切れない言葉は宙をたゆたって先に真琴の元へとたどり着いた。
 真琴が好きだという千葉くんは三組の子だった。すらっと背が高くていつも変なTシャツを着ている不思議な男の子だけれど、運動神経が良くて足が早い。どうやらサッカークラブに入っているらしい。納豆が苦手で給食に出る度に担任の机にこっそり置いているのがバレて先日軽く怒られたらしい。顎に小さく黒子があって、そこもかっこいいらしいけれど私にはピンとこなかった。黒子が素敵だというのなら私にだってある。左眉の上と右の頬。鎖骨の上とおへその下と右足首。さっき見返したら右の二の腕の裏にも見つけた。こういうことではないらしい。
 クラスが違う千葉くんのことをどこで知ったのだろうと悩んだが、同じ学童に通っていたらしい。真琴としか話しをしないので全く気がつかなかった。真琴だって私とばっかりいたのに、私以外の男の子に気を取られていたなんて。

「千葉くん」

 私の好きな声で私じゃない人の名前を呼んでいる。真琴が私から離れていってしまう。私の不安を知らないまま真琴は千葉くんへ思いを寄せていく。お揃いだったセミロングの髪が千葉くん好みのボブカットになって、ふわふわのスカートはアップリケと刺繍で飾られたジーンズになった。スポーツなんて興味がなかったはずなのにいつの間にかサッカーに詳しくなっている。共通の話題がどんどん減っていく。真琴と話しはしたいけれど、千葉くんのために真琴が得た知識に寄り添うために私が興味のないサッカーについて勉強するのは癪だった。
 学童でも学校でも、真琴は千葉くんと話しをするようになった。たまに照れたみたいな顔をして、千葉くんの肩を叩く。真琴の甘い声は私ではなく千葉くんの名前を呼んでいる。吐き気がした。私は初めて昼食を真琴以外の人と食べた。休み時間は図書館に籠もるようになった。できるだけ厚みのある本を読むようにした。真琴と一緒じゃないことへの正当な理由付けをしたかった。

「一緒に帰るのやめようと思うの」

 手を離したのは真琴からだった。
 私は反射的に「もう真琴は私のことを好きではないんだろうな」と思った。あんなに一緒にいたのに、私たちは運命的に出会った大親友だったはずなのに。私よりも千葉くんを選ぶ真琴を、恋とかいうわけのわからない感情に飲まれている真琴を可哀想だと思った。

「そっか。じゃあ、今日で最後にしよっか」

 私は物わかりの良い振りをして、真琴の手を取った。真琴は握り返してくれなかった。普段と違う道を通って帰った。困惑する真琴に「最後だし」と無理に納得させる。いつもよりひとつ上流にある橋を渡る。歩道がないのに交通量が多いから気をつけてと言われていた道に続いているのを思い出して、真琴の手をぎゅっと強く握った。「痛いよ」と真琴が言う。握り返してくれないからじゃん。

「あ、信号」

 逃げるように私の手を振りほどいた真琴が点滅し始めた青信号を指さして、横断歩道を駆ける。追いかけようとして一瞬躊躇う。このまま離ればなれになってしまって、もうあの手を取れないままの方がいいのかもしれないなんて思った。追いかけてこない私を不思議に思ったのか、渡り切る前に真琴が横断歩道の真ん中で足を止めて振り返った。信号はもう赤に変わっている。

「  」

 私は聞き返そうとして顔をあげる。真琴の姿はなく、目の前は銀色の塊があるだけだった。それが変わる信号を前に滑り込むようにして曲がってきたトラックだったこと、その下敷きになってただ体液をまき散らすだけの置物になった真琴がそこにいたことに気がつくには一瞬すぎた。おとなたちが私たちの元へと走ってくる。声が重なってそれが誰のものがわからなくなって、何かが壊れるような音がして、ぐるぐると目が回る。気がついたときにはもう、真琴は額縁の中にしかいなかった。
 多分恋だった。定義は「特定の異性」に対する感情であるとされていたので、辞書には恋とすら認めて貰えない感情だった。一緒にいたかったのは仲良しだったからじゃない。好きだったからだ。大好きな友達ではなく、大好きな女の子だったのだ。実らない思いは結末のないまま強制的に幕が下りた。真琴がいなくなって千葉くんはどのくらい苦しい? もう誰も愛せないくらい胸が痛い? きっとそんなことはない。その時点で真琴の恋も実っていない。だから私の手を離さないでくれたら良かったのに。

 背格好も随分と違ってしまった。私はもうおとなで、真琴はいつまで経ってもこどものまま。一緒なものなんてもう性別くらいかもしれない。鏡の中で私のボブカットの髪が揺れた。鐘が鳴る。午後の合図だ。

 まっすぐに伸びた紫色が灰になって崩れていく。このお揃いの香りを纏う時が来たら、また私の名前を呼んでくれる?

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