【短編小説】保護

 連絡もなく佐知香が我が家にやってくるのは、今に始まったことではない。いつも決まって身体のどこかに傷を作っておりその手当をするのが私の役割だ。消毒をして、湿布や包帯を巻いてやる。記憶の中の佐知香はいつも薬の匂いがしていた。

「ごめんね、こんな時間に」

 何を今更と思わなくもないが、深夜一時過ぎの来訪には流石に面食らった。この日は特に楽しくもない会社の飲み会があった。最悪は帰宅後まで続くのかと自宅の前で座り込む人陰をみつけたときは思わず叫びそうになった。大きめのパーカーを羽織っており、顔もフードで隠れ骨格もわからず『暴漢かもしれない』と思った。一人暮らしをしている女性の帰宅時を待ち伏せて襲う手口があると先日ネットニュースで知ったばかりだったからだ。相手に気がつかれたら事である。そっと来た道を戻ろうとしたとき、携帯の着信音が無情にも鳴り響いた。酔いなんてもうどこにもない。血の気が引く。

「あ、おかえり。あずき」

 暴漢(仮)が顔を上げ、フードが外れた。長い髪が零れ、揺れる。見知った顔に安堵して、声にならなかった息が窒素の海に溶けていった。

「何してるの、こんなところで」

 緊張の残った声で私は問いかける。あずきは人の気も知らないまま、屈託のない笑顔をこちらに向けて答える。

「あずきの帰りを待ってたの」

 帰りが遅いことをわかっていたので、女だとバレない格好を選んだという。彼女なりの自衛だったらしい。そこまで気を回せるのならもっと私の気持ちまで想像してほしかったものだ。

「いつもの?」私は鞄から鍵を取り出し、ドアを開ける。佐知香はワンテンポ遅れて「まあね」とだけ答えた。部屋の救急箱の中身を新調していないことを思いだして、絆創膏のストックが不安になる。いざとなったら近くのコンビニまで買いに行けば良いだろう。

 部屋に入るなり佐知香はいそいそと真っ黒なパーカーを脱いでいた。家主に一言くらい断ってから脱いでくれと頭の隅っこで思う。すぐに気にする必要がないほどの関係なのだろうと思い直せばそれすら愛しく感じた。ビックシルエットのパーカーの下に隠れていた佐知香の細い身体が露わになる。女の子らしい曲線が乏しい痩せすぎた身体なのに、どこかなまめかしい。この身体を傷つける人間の気が知れないと毎度ながら思う。

「手当するから、先お風呂入ってきなよ」

 差し出したバスタオルを受け取った佐知香の右手のネイルが二枚剥がれていた。心の支えのようにおしゃれだけは気を抜かない佐知香の爪が不完全であることに何かがおかしいと思ったが、その違和感がわからないまま、私は浴室に向かう佐知香を見送った。

*

 初めて佐知香が我が家にやってきたのは、大学一年生の頃だった。中学生で知り合って、約十年が経つ。浮いた話のない佐知香だったが、大学進学と同時に恋人ができたらしい。しかも年上だというので驚いた。面倒見の良い女である印象が強かったため、勝手に年下と付き合うものだと思っていたのだ。

『あずき、助けて』

 進学に伴い連絡が途絶えていた中でかかってきた電話で佐知香は私に助けを求めてきた。私は動揺して、二言目には「家、来て」と言っていた。

 それからすぐに我が家にやってきた彼女は見たことがないほどに頬が腫れていて、ただごとじゃないと思った。聞けば恋人に殴られたという。

「佐知香、何したの」

「なんで、私が何かをした体なのよ」

「何もしてないのに殴られるわけないじゃない」

「何もしてないのに殴られたからここに来たんじゃない」

 そんなことがあってたまるか。しかし実際そんなことがあるらしい。佐知香はそれを彼なりの愛情表現なのだというが、その言葉を信じているとも思えない。受け入れているのであれば『助けて』なんて言うわけがない。

「不器用なんだよね、力加減とかできないみたいでさ。愛してくれるのは嬉しいけど、殺されちゃうのは違うから。逃げてきちゃった」

 佐知香は『道に十円落としちゃった』くらいの不幸になりきらない不幸だと思っているのかもしれない。あっけらかんとした語り口にため息が出そうになるのを堪える。佐知香の頬に保冷剤を当て、腫れを少しでもひかせようと努める。その間に腹部にあった痣に湿布を貼る。見ればあちらこちらに怪我があった。

「こんなことする男(やつ)なんか、さっさと別れたほうがいいよ」

「そんなことしたら、彼が死んじゃう」

 感情のない声に冗談ではなく、本当なんだと思わされた。それが恐ろしくて私は思わず佐知香を抱きしめた。愛の先に生死がある関係を本当に恋人と呼んで良いのだろうか。私と軽口を叩いている様子は学生のころのままだが、どこか違う一位なってしまったような笑みを浮かべる瞬間がある。佐知香を変えられてしまったような気がして、もやもやする。

「いつでもここに逃げてきて良いんだからね」

 佐知香は小さく「うん」と頷いて、それから本当に何度も逃げてきた。
 一人目の恋人は年上であることが幸いして、二年経ったら就職で県外に引っ越しをすることになって物理的な別れが訪れた。やっと佐知香に暴力を振るう男がいなくなったと思ったのに、気がついたらまた似たような男と付き合い始めたと知って目眩がした。

*

 自分の救護スキルがあがっていくほどに佐知香の怪我の数を実感して嫌になった。シャワーの音を聞きながら、救急箱の中身を確認する。絆創膏は問題ない数が残っていたが、消毒液がちゃぱちゃぱと軽い音を立て始めていたので心許ない。今回の傷の種類によるが少しばかり不安だ。私の心配と裏腹に佐知香は目立った傷のない身体で浴室から戻ってきた。面食らっていると、佐知香の方が不思議そうな顔をして私を見た。

「変な顔してる」

 今までのことなんて何もなかったみたいに佐知香が笑う。この家に来る理由なんてひとつしかなかったのに。

 佐知香が怪我をしていないことは喜ばしいことだ。しかしそこに自分の存在意義がなくなってしまったような不安感があった。どこか気まずい間があいて、佐知香が私の手元に目線を落とす。

「そっか、手当。今日はいいの」

 握ったままだった消毒液をするりと掴んでテーブルに置く。手持ち無沙汰になった私の手を握って「いいの」ともう一度言った。濡れた佐知香の髪の毛から垂れた雫が、私の手の甲にぽたりと落ちた。

 一瞬、雫が赤く染まって見えて声をあげそうになる。やっぱり怪我をしてるのではないか。顔をあげると、悲しく微笑む佐知香と目が合った。

「あずきの方こそ、どこか痛むみたい」

 そんなことない。すぐに返すことができなかったのは、心に浮かんだ違和感を痛みと感じたせいだった。ためらいに気がつかれないように顔を伏せ、佐知香が握った手をほどく。

「早く髪乾かさないと風邪ひくよ」

 佐知香はまだ何か言いたげだったが、秋ためたように「うん」と頷く声だけが背中越しに聞こえてきた。

*

 佐知香はまだ家に帰らない。帰りたくないのだというが、まもなく二週間が経つ。彼女の今までの恋愛事情を知っている身からすると、こんなにも恋人を放置していたら本当に帰れなくなってしまうのではないだろうか。

「あ、テレビ。消して」

 朝のルーティンでテレビの電源をつけると、すぐに消されてしまう。これが地味にストレスだった。「あずきの声だけ聞いてたいの」と意味のわからぬ理由で拒否されている。反対に佐知香にとってテレビの音がストレスなのだとするのであれば致し方がない。観たい番組やドラマがあれば元々配信で観るタイプだし、朝にテレビをつけるのも、モーニングショーのコーナーを頼りに大まかな時間を確認したいだけなのだ。佐知香が我が家に来てからは、テレビの代わりに声で大まかな時間を教えてくれる。確かに必要はないかもしれない。ただ、決まったルーティンが崩れることが不快に思うだなんて知らなかったのだ。

「明日、缶捨てる日だからさ。まとめておいてくれると助かる」

「わかった、やっとく」

 玄関で靴を履きながら、リビングでソファに座ったままの佐知香に向かって叫ぶ。ギリギリ聞こえるくらいの声で返事があったのでよしとして外に出る。鍵を回してカチリと音がなったのを確認して、ドアノブから手を離す。佐知香が我が家に来てから以前よりも防犯に気をつけるようになった。スマートフォンで時間を確認すると八時五分を回ったところだった。

 人で溢れかえった電車に乗り込む。この時間だけはいつも社会の奴隷にでもなったような気分になる。隣に立った妙齢のサラリーマンが細長く折りたたんだ新聞紙を読んでいる。そこまでして読む必要があるのかはわからないが、視線を右に動かすだけで十分読める距離にあったこともあり暇つぶしに使わせてもらうことにした。

 久しぶりに目にするニュースは、知らない内容ばかりで、世間に置いて行かれているような気がして身体が落ち着かない。大きく一面で取り上げられている大物芸能人の不倫記事のすぐ下に、見覚えのある地名が書かれてあり目が止まった。見出しには男性の変死体が見つかったとある。人の死よりも世間は不倫に興味があるのか。そんなことを思いながら記事を読んだ。

 死亡した男性は山本謙太、三十一歳。異臭を感じた周辺住民による通報で駆けつけた警官により発見。腹部に数カ所刺し傷があり、死後二週間が経過していると見られる。発見されたマンションは別の人物の名義で契約されており、契約者である女性の行方が現在不明である点からも、警察はその女性が犯人である可能性が高いと捜査を行っている。

 最後まで読んで、血の気が引いていくのを感じた。掲載されているマンションの写真にも、山本謙太という名前にも覚えがある。そしてその女性にも心当たりがあるとすれば。

 人をかき分けて電車を降りる。走ってもいないのに心臓がバクバクとなって、喉の奥から血の味がする。指先の震えをどうにか押し殺して、反対ホームに向かう。

「佐知香」

 この胸騒ぎが嘘であってほしい。早く佐知香の顔を見て安心したい。スマートフォンを取り出して、佐知香に電話をかけようとした手を止める。誰かに会話を聞かれたらまずいのではないか。通勤時間なだけあって、辺りには人で溢れている。液晶を閉じて、やってきた電車に飛び乗った。

*

「ああ、そっか」

 帰宅した私を見て、佐知香はそう言って微笑んだ。自宅だというのに、玄関から先に入ることができない。佐知香に聞きたいことがたくさんあるのに、近づいてはいけないような空気があった。そんな私を見て、何かを納得したように頷いて、佐知香はいそいそと荷物をまとめ始めた。

「何、してるの」

 最悪の考えが脳を埋め尽くす。声が震えた。佐知香は私の方を見ない。やっとの思いでパンプスを脱いで、廊下を進む。

「もう少し一緒にいられると思ってた」

 二週間前に着ていたパーカーに手を伸ばし、頭から被る。やっぱりそれ、ぶかぶかすぎて似合ってないよ。襟元から顔を出し、フードを取る。人が変わったように温度のない笑顔を見せる佐知香に、不安が確信に変わる。

「ねえ、あのニュース」

 本当なの、と問う前に佐知香が私の唇を指先で塞ぐ。「あずきは知らないままでいい」耳元で佐知香が囁いた。

 知ってる佐知香の声に安堵したのか、罪を知っても尚いつも通りの彼女に恐怖を覚えたのかわからないが、身体の力がすとんと抜けてその場に座りこむ。

 物理的に佐知香の顔が遠のく。どんな表情で私を見ているの。声を出そうにも、上手く呼吸ができない。

「好きだよ、あずき」

 指先に触れるだけの口づけを残して、佐知香が玄関に向かう。待って、行かないで。いつだってここに逃げてきて良いんだから。それが法律だとしても。

 パタンと無機質な音を立てて玄関の扉が閉まる。缶の入ったゴミ袋が、靴箱の前でカタンと倒れた。

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