【短編小説】渦

 鈍い音がして顔を上げると、店の奥のカウンター席から誰かが転がり落ちたようだった。ほどよく狭い店の中で、その音はやけに重く響いた。床に倒れ込んだ女性はピクリともしていない。隣の席にいたボブカットの女性はそれが特別なことではないとでも言うようにイスに座ったまま黙って見下ろしていた。どこか悪いところを打ったのではないかと心配する私と裏腹に心底面倒くさそうな顔をしていたのが気になった。

「バカだよねえ」

 隣に座るユウキが呟く。呆れと笑い、嘲りのようなものが混じった声だった。ユウキの声を聞いて、目の前に座るハルカも同じように笑う。ここではこの反応が正常なのだろうか。私は何杯目か分からなくなった手元のハイボールを見つめながら「そうだね」と彼女たちの言葉を肯定した。倒れ込んだ彼女の姿が頭から離れないまま、わずかに残ったハイボールをぐっと煽った。微かに残っていた炭酸が喉の奥でしゅわ、と潰れていった。

 一律三千円で飲み放題、カラオケも歌い放題。

 地元のスナックとシステムは同じだというのに東京という地にいるだけでどこか悪いことをしているような気分になる。歌い放題とはいうものの、店全体でひとつのカラオケ機材を共有するため、よほどでない限り歌いたい気分にはならない。ユウキやハルカも同じようで、私たちの元にデンモクがやってくることはなかった。隣のテーブルを使うグループが、取って付けたような音階で歌うひと昔前のJPOPを聞くだけで充分だ。

「ミナツって結構強いんだね」

 息も絶え絶えのポルノグラフィを聞いていると、不意にハルカが言った。一瞬何の話しかわからなくて私は少し反応に遅れた。
「お酒」とハルカが付け足すのを聞いてやっと「ああ」と声が出る。

「そうなのかな」

 あまり量を飲んでいる感覚がないため、強いと称されて良いものか迷いがあった。確実に飲み始めよりも体温は上昇しているし、袖口から覗いている手首の色が赤すぎる。顔には出ていないのだろうか。

「強いって、私なんかもう楽しくてしゃーないし」

 それのどこがマイナスアピールなのかわからないが、確かに少しテンションと呂律が怪しくなってきている。スマートフォンの画面を見て、二次会と称してこの店にやってきてから一時間ほど経過していたことに気がついた。

「大丈夫。ハルカはこうなってから最後までこのまま何事もなかったように行くから」ユウキが囁く。大丈夫の意味がよくわからないが、大丈夫なら大丈夫なのだろう。

「まあ確かにまだ元気かな」

 ハルカがお酒を追加注文しているのを眺めながら、先の問いに答えた。ハルカはもう話しを聞いていないようで、隣のテーブルで歌うスキマスイッチに合いの手を入れていた。

 誰かひとり倒れただけでは店内は変わらない。緩やかに酒の香りを漂わせながら時を進めていく。ボブカットの女性がやっと立ち上がったと思えば倒れたままの女性を足で小突いていた。そのまま眠ってしまったのだろうか。長いことそうしていたように思うが、未だに同じ場所に転がっている。時計の針はやっと二時を迎えたところだ。

「ミナツとこんな風に飲めるなんて思ってなかった」
「確かに、ずっともっと真面目ちゃんだと思ってたもん」

 ユウキとハルカとは今日初めて会った。

 初めてという言い方をすると聊か語弊がある。元々ネットの中では知り合いでかれこれ七年近い付き合いだ。互いに高校生の頃に好きなアニメやゲームが同じことで出会い、毎日のように活字だけでお話しをしていた。出会うのが遅くなったのは、私だけが東北の田舎に生まれ落ちてしまったせいなのだ。就職で田舎を抜け出し、やっと新しい環境での生活にも慣れたため今日を迎えることができた。反射的に真面目なんかじゃないよと否定を並べようとして、少し悩む。ハルカの右耳に複数個空いたピアスも、ユウキの人間離れした真っ青な髪の色も私とは住む世界が違うと言われているようで、生まれたままの姿を保っている私が随分と場違いに思えてくる。

「そうなのかなあ」とまた曖昧な言葉で相槌を打った。
 ユウキは「そういうとこ」と言ってグラスに氷を足す。

「確証が持てないと曖昧にしか言わないとこ。真面目だよ」

 まるでそれは「つまらないやつ」と言われているようで、急に居心地が悪くなった。

「ウチらにないとこ。だから好きだよ」

 ハルカがそう言いながら私の頭を撫でた。少し強引に私の頭を抱き込む。右耳のピアスが頬骨に当たってひんやりとした。

「なんなんだよお前! ふざけんな!」

 悲鳴に似た叫び声があがって、ハルカが私を抱く手を緩めた。その隙に顔を上げると、部屋の奥がボブカットの女性が頭を抱えているのが見えた。女性は未だ横たわっただけだ。遂に痺れを切らしたのだろうかと思いながら興味に負けて身を乗り出すと、先までなかった水たまりが出来ていることに気がついた。

「あの人、吐いちゃってるみたい」

 ユウキは何も気にしていないようだったが、ハルカは眉を顰めながら「うわ」と呟いた。意識がないまま吐いてしまっていることもそうだが、ボブカットがそれを前に心配するどころか癇癪を起こしているのも異常だ。私ならこのまま死んでしまうのではないかと怖くなる。現に怖い。名前も年齢も何も知らない人のことだというのに、自分のことのように寒気がする。それを言葉にしたらまた『真面目』だと言われてしまうだろうか。

「なんなんだよ、ほんっとに! 意味わかんない」

 同じ言葉を繰り返しながら、ボブカットは崩れるように席に腰掛ける。店員が彼女をなだめているが、私の心はざわついたままだった。

「ね、歌わん?」

 ハルカの声で視線を戻す。気がついたらユウキがデンモクを操作していた。
 

 酒の席というのは昔からあまり得意ではなかった。成人するのはそれなりに楽しみで、大人になるということを悲嘆したことはなかった。初めての飲み会は大学生の頃だった。普段優しい先輩が酒を飲んで横暴になり、何かが気に入らないとテーブルを強く殴っていたのが忘れられない。酒を飲むことでコミュニケーションが円滑になると聞いていたのに、全く持って反対じゃないかと緊張で飲みすぎた友人が吐くのをトイレで見守りながら感じていた。

「大丈夫? お水飲んどいたほうが良いよ」

 隣でペースが早そうな友人がいればそっとお水を差し出し、体調が優れない後輩がいれば自分の飲み物と交換してあげる。遠くに倒れた酔っ払いがいれば介抱に駆けつけることはしなかったが、飲み会の宮沢賢治のごとく優しい人としてその場にあった。

 ゆえに常に誰かのストッパーであり、自分が何かを楽しむために飲み会に参加することはなかった。それも円滑に穏やかに酒の席を過ごすためだった。自分の許容を超えた飲み方などしない。誰かに迷惑をかけてまで殻なんて破ることはできない。それを少しうらやむような気持ちがないと言えば嘘になる。自分の形がわからなくなるほどに溺れてしまっても許されるだろうか。

  カシャン、カシャンと連続して小さな音がした。ユウキがSNSで流行っているという洋楽を歌っている最中だったが、音のするほうに意識が移っていた。ボブカットが拳をカウンターに叩きつけたままスマートフォンをいじっていた。床の吐瀉物は先よりも大きく広がっている。倒れている女性の身体が吐瀉に塗れているところを見ると、その上を転がったのだろう。何を歌っているのかわからない洋楽の歌詞が状況の混沌さを加速させていた。                        

「やばいね」

 やっと感覚が合ったかとホッとしたが、よく聞いているとハルカが言っているのは吐いてしまった彼女ではなく、その連れのボブカットの女性が吐瀉物ごと倒れている彼女の動画や写真を撮りまくっていることに関してだった。先の音はカメラの起動音だったのか。

「う、確かに」

 自分のカメラロールに吐瀉物が映り込んでいるところを想像して少し気分が悪くなる。微かに甘さのある匂いが漂っているのに気がついた。知っているような、知らないような。記憶のどこかにある匂いだった。ハイボールを一旦休んでチェイサーに手を伸ばす。味がしないはずの水道水が今は一番美味しいと思った。 

 小学生の頃、仲の良かった女の子はミネストローネを食べると必ず二時間後に吐いてしまう子だった。教室の真ん中で静かに真っ赤な液体を吐きだして、担任が血と勘違いして大騒ぎになったことすらある。胃液の匂いなのか、ミネストローネのトマトの匂いなのかわからない酸っぱい匂いと、どこからやってきたのかわからない甘いような匂いが記憶にこびりついている。香りに重さがあるのなら岩も砕けそうなくらいずっしりと重く、もったりとその場に留まっていく。私は率先して廊下に飛び出す。その場にいたら私も吐いてしまうかもしれない。そんなことを言いながら逃げ出していた。涙目で口元を抑えている友人の顔を視界に入れないようにするので必死だった。目が合えば私は安全なところから彼女を見つめる卑怯者だと認めてしまうことになるような気がしたから。

 眠る彼女は意識がないまま、目の前の吐瀉物を片そうと着ていた服の袖で床を撫でる。ただただ無意味に広がっていくだけの惨状を見ているだけの私たちの横を店員が通り抜けた。空気がゆっくり動いて、重く甘い匂いが私たちの元まで漂ってきた。さっきから感じていた匂いは、彼女の吐瀉物の匂いのようだった。記憶の中とは違い酸味はあまり感じない。

「ほんといい加減にしてよ!」

 スマートフォンを構えていたボブカットが、怒りか嘆きかわからないような声を上げる。床を撫で続けている女性の背中を足先で小突いていた。

「気にしなくていいよ、店員もいるし」

 視線を逸らせずにいる私が、相当彼女たちのことを心配していると思ったようでユウキが私の肩をそっと叩いた。ハルカが「ミナツは優しいねえ」と再度私の頭を撫でるのを受け入れながら、否定の言葉をぐっと飲み込んだ。

「ハルカちゃん、実は結構酔ってる?」

 代わりに吐きだした言葉をハルカが否定し、ユウキが肯定した。
 撫でられながら何かを飲むことは難しい。大人しく撫でられ屋さんにジョブチェンジをすると店内は思った以上に雑音に満ちていたことに気がつく。カラオケの音源と、誰かのマイク越しの歌声。その隙間を縫うように入る合いの手や、グラスに氷がぶつかるカランという音。トイレの扉を開け閉めする音。三時になろうというのになぜか鳴りやまないLINEの着信音。その全てがこの場所に必要だった。

 カウンター席での出来事が店内のメインステージだと、吐瀉物塗れの彼女を今日のプリマだと思い込んでいたようだ。

「そうだよね、店員さんいるんだし」ユウキの言葉を繰り返して、やっと納得させる。心配という仮面を付けた興味を捨てるために、私を甘やかし続けるハルカの腕から抜け出しお手洗いへと向かった。

 扉を開けると同時に「あ」と声を漏らしてしまったのが間違いだった。ボブカットの女性が丁度手を洗っているところだった。誰もいないと思っていたところ人がいて驚いたという顔をすればいいのに、私はこういうときに咄嗟の芝居が全くできない。何度も視線を送ってしまっていたせいで彼女も私の顔を見て「あ」と声を出した。

「えっと、その」

 何をどう声をかければいいのかわからずしどろもどろになってしまう。

 大変ですね。大丈夫ですか。手伝えることありますか。

 浮かぶ選択肢はどれも不正解である。特に三つ目は大外れだ。私に手伝えることなどない。興味の対象にしていた相手に手を貸したところで笑いものにしていると思われるだけだ。

「ずっと見てましたよね。マキのこと」

 倒れている女性はマキというらしい。私はやっとの思いで「すみません」と声にした。殴られるくらいは仕方がない。円滑なコミュニケーションの可能性の芽を先に摘んだのは私の方だ。覚悟を決めて恐る恐る視線だけでボブカットを見上げると何も言わないまま頭を抱えているのが見えた。

「……えっと」
「……見世物じゃないんで」

 ボブカットを搔き乱しながら、扉を開いてお手洗いを後にしていく。こういうときかける言葉を私は知らない。目の前の無駄に大きな鏡に映る私の顔が思ったよりも赤く染まっていたので、体感よりも酔っているのかもしれない。ただ今はユウキとハルカの元に早く戻りたい。便座に座りながら、今度は私が頭を抱えていた。

 空の色が黒から白へと変わり始めてきた頃、私たちは店を後にした。マキは未だに床とくっついたままだった。途中吐瀉物塗れになった衣服を脱ぎ下着だけになって、体育座りをしているところを見た。その直後にまた崩れるように倒れ込み退店時もそのままだったので復活には暫くかかるだろう。

「始発で帰るのも久しぶりだわ」

 ハルカが駅に向かう道のりで大きく背伸びをする。鼻の奥に残る甘い匂いを朝の冷たい空気が洗い流す。仄かにアルコールと人間の体臭が漂う街の中でその空気を心地よいと思えたことが驚いた。

 過去の飲み会の中で一番不安になる時間だった。酒に溺れ飲み込まれ長時間動けないままの人を初めて見た。今までの飲み会は初級編だったのだろうと思わされる。二度はごめんだという気持ちと、あんな風に溺れられたらどんなにいいだろうかという気持ちがあった。

「気をつけて。よかったらまた」

 相反する気持ちがユウキの言葉への返事を鈍らせる。私は歪に微笑み返すことしかできなかった。ユウキはきっとそれを否定と取るだろう。眠かったのだと言えば言い訳になるだろうか。
 方向の異なる電車に乗り込んで、やっとひとりになる。衣服や髪の毛に染み込んだ夜の空気を早く洗い流したいと思う私はきっとまだ飲み込まれる覚悟が足りない。

 上着やカバンを乱雑に置いてそのまま風呂場に直行する。まだ呼気にアルコールが残っている気がした。歯磨きをしてもアルコールはまだ残っている。今日が日曜日でよかった。誰かに会えるほど健全じゃない。石鹸塗れになってようやく夜の匂いを忘れていく。私が私に戻っていくような気がした。シャンプーを泡立てながら、ベリーとフローラルの混じったいつものお気に入りの香りを嗅ぐ。

「あ、この匂い」

 それがあまりにもマキが塗れていた吐瀉物の匂いに似ていたので嫌な笑みが漏れた。重い甘い匂いだ。ああ、記憶の中にあったのはこの匂いだったのか。シャンプーの泡を掬って顔をうずめる。口の中に石鹸の独特の苦味と同時に華やかな香料が広がり、少しえづいた。埃と脂、アルコールの匂いが洗い流されていく。甘ったるい香りの中で私は清潔になる。

 吐瀉物に塗れずとも、同じような匂いに包まれる。私はずっと清潔なままであの渦の中心になったふりをするのだ。小学生の頃目を合わせられなかったあの子と今目が合った気がする。私は今も卑怯なままだ。

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