2024.05.23

打ち合わせがあったのでフォーマルな格好を久しぶりにした。カラタチの大山さんみたいになってしまってちょっと萎えた。スーツが似合わなくて、ブラウスとカーディガンという少し緩いフォーマルに逃げてしまう。スーツでなくて良い打ち合わせだったからだけれど。今日のような格好をすると親に「高校生だね」と言われるのが嫌すぎる。助けてくれ。大分おとなだぞ、これが褒めなわけがあるか。

部屋の片付けをした。
大学時代に地元に帰ってきてから開けてなかった段ボールがあってウケてしまった。そんなことあるかよ。当時の原稿やきゃらびい(アニメイトの商品紹介冊子)などが大量に出てきて体調を崩した。ノスタルジーで体調は壊れる。今回の学び。

ネイルを落としたら爪が伸びすぎていてびっくりした。
色がついてると錯覚するんだなと思った。短くしましょうね。そろそろアトピーが加速するので身を守ろうという気持ち。大人になったら体質が変わってアトピーが治りますよと聞いていたのに全く治ってなくて辛すぎて去年病院で泣いたのが今でも苦しい。荒れている腕が恥ずかしいんだよな。見ないでくれ、私を。

何か書いておきたいことがあったような気がするのに本当に全てを忘れてしまった。日々記憶を失っている。やはりそのタイミングで書くしかない。日を改めるな。己を戒めながら生きていく。

掃除に伴い、過去USBを発掘したことで学生時代の原稿が諸々出てきた。保存日時が2017年で気を失うかと思った。その上書きかけのものもあって完全に白目を向いた。作家デビュー時期の原稿というだけでも気が狂いそうだったのに、中途半端なまま放置していたなんて。前進できない今の現状を突きつけられたような気持ちになった。だから今もここにいるんだよ。
あまりにも情けのない話しだが、近くに天才がいるとやるせない気持ちになって自分を悲観してしまう。藤本タツキとキャンパスを共にしていたということ。これがあまりにも心の大きな傷である。私は物語論を学ぶための学科に在籍していたが、彼は絵を学ぶ学科にいた。いたらしい。というのも特別交流はなかったからだ。後になって、いたらしいということを知った。ほんの一年被ったかどうかという年齢差だというのに、随分と食らった。物語を作ることに対する学びは彼の作品において不要だったという事実が、そこにあるからだ。ああ、天才というのもはいるのだ。どんなに学びを得たとしても、構造や手法を理論立てて説明できるようになっても、それを飛び越えて魅了する作品を作ることができる人間がいる。私は同じ学び舎を経て、何者にもなれないまま、日々変わることのない日常を憂いては心を摩耗するだけだ。
文章力を褒めてもらえたことがある。それだけで生きていけるような気がした。しかしながらそれが私を殺す言葉にもなるのだと最近気がついた。文章力があることだけでは、私は見つからない。文章力がなくたって、言葉は誰かの心に届く。きっと綺麗に着飾った五十音よりも、不格好な五十音の方が温もりになる。私ではダメなのかもしれない。

昔、声優になれなかった人のブログか何かで「滑舌の良い一般人ができあがっただけ」という言葉を見た。今の私はそれに近い。それっぽく言葉を並べることができる一般人がここにいるだけ。それって何の意味があるんですか。できることがこれしかないのに、代わりのきく仕事ばかりなんて私である意味がどこにもないんだ。私の本気は恐らく本気ではなかった。この現状が私への戒めなのだ。

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