『SHOGUN 将軍』
言葉によって、所作によって、表情によって、語り得ぬ思いを語り、なおその真意はひた隠しにされ続ける。そうすることで夢はかたちを成し、やがて花となる。
「関ヶ原の戦い」前夜を舞台に、徳川家康、細川ガラシャ、イギリス人の航海士三浦按針(ウィリアム・アダムス)ら、歴史上の人物からインスパイアされた人々を主役に添え、不可解な人間性と見えない心を描いた、陰謀と策略渦巻く歴史ドラマシリーズ。
えー、集中してみるべきドラマです。集中しないと話の筋がわからなくなる、という意味ではなく、最初から最後まで傾聴するだけの価値がある、という意味で。それくらい脚本、衣装デザイン、背景美術と、あらゆる面でしっかり時代考証が行われており、台詞ひとつとっても、村人ひとりの服装であっても妥協のないこだわりが貫かれています。なんせ監修には主演である真田広之が自ら率先してかかわったらしく、いわゆる「おもしろニッポン」な描写は皆無に等しい。特に衣装についてはすべて手作りで用意したとのことで、主演の方々が着ているものがとにかく雅びです。見ていて目が潤う潤う。新しい着物が出てくるたびにまずは生地とか色合いに注目するなんてことはこれまで無かったのですが、この作品についてはあまりの美しさに惚れ惚れしてしまいました。しかも服装自体が登場人物の人間性や社会的地位を表している場合が多く、豪華に作られているという”見栄えの良さ”に留まらず、ドラマの質を高める効果ともなっています。虎永(真田広之)の着る衣装は色といい繊維といいどっしりとした威厳のある雰囲気を醸し出すものが多かったですし、鞠子(アンナ・サワイ)の衣装は繊細でありながら他とは一線を画す孤高の存在であることを表現しています。また、それぞれの社会的地位を服装だけでなく日焼けした肌の色や髪の泥臭さなど、メイクで表現しており、それが画面の端っこの方に映る村人さんにまで徹底されているため、この部分に関しても違和感ゼロ。ほんとすごい。1600年の日本を現出させようとする気概が半端ないです。
そして真田広之。もうね、とりあえずこのドラマは真田広之の顔を、佇まいを見ろ、と言いたい。
上に立つ者としての佇まい、刀を携え、家臣たちを鼓舞し、自身の胸中はひた隠しにし続ける男。話の中心にいながら作中最もその胸の内を明らかにしない人物ですが、表情の精悍さがそれだけで写真集出せるんじゃないかってくらいきまっており、この方がしゃべってると画面に重厚感が出ます。特に相手と対話する際の「所作」や「ふるまい」がすごい。アクションや殺陣シーンをやらせてもちゃんとこなせる方ですが、それ以上に将軍となる人物の威風堂々した佇まいとその迫力を見せつけてくれた感じです。その「所作」こそが本作におけるアクションシーンとなっていると私は思いました。
殺陣や合戦、海戦や対忍者戦など割と豊富にアクションの場面は用意されてますが、本作の肝は虎永が仕掛ける策略劇なので時間の単位で見るとそれほど多くはありません。しかし動的なアクションは茶道、芸者、能、と形を変えて表現されており、まさに日本の伝統芸能を一覧で見せてくれるような内容。いや、というよりもやはり「所作」こそがこの作品の動的な魅力でしょう。お辞儀をする、箸を使って飯を食べる、歩く、座る、そういったこの時代の日本人の所作。その美しさ。一般的な「戦い」というアクションシーン以上に、どう”振る舞う”かという部分に私はいちいち魅せられてしまいました。
『SHOGUN 将軍』はそういった日本文化を按針というイギリス人の視点を通すことで異化させており、この時代の風習、しきたり、人間性が徐々に見えてくる構造となっています。アジアにおけるポルトガルとスペインの貿易を妨害するという使命をもって日本にやってきた按針にとってここ日本は異郷。自国とはかけ離れた環境で生きることを余儀なくされた按針はなかなか生活に馴染むことができずその風習に翻弄されます。
そしてそこで重要となるのが「通訳」という要素。本作では基本的に日本人は全員日本語をしゃべりますし、イギリス人、ポルトガル人は英語を使うので、人種が異なる人物同士が対面した際は間に「通訳」をはさむことになります。そのためまず、按針は鞠子を介して言葉を伝え合うこととなるのです。按針にとって鞠子という存在は異文化への扉であり、その視点は視聴者である私たちにとっても実は同様。つまりこのドラマにおける「翻訳」とは、1600年の日本文化を解説する役割になっているのです。だから按針(視聴者)にとっておかしな慣習、例えば夫が寝る前に正室は寝てはならないとか、苔の上を歩いてはならないなんてことが出てきたとき、彼は「変なの!」とちゃんとツッコミを入れてくれます。約400年前の日本はいまの日本人から見てもやはり異文化であり、按針とは現代の視聴者の代わりとなる存在なのです。
そうして鞠子という通訳と接触することで、按針は間接的に虎永らともコミュニケーションを取ることが出来るようになり、やがてこの国の慣習や人間性、死生観についても知っていきます。
また、「通訳」という要素が活かされるのはそういった異文化を翻訳するためだけではありません。イギリス人である按針とポルトガル人の宣教師は目的が異なる立場にあり、通訳をする際も「自分たちにとって利益になるか、不利益になるか」を考えながら話します。他にも按針が汚い言葉を使って相手を貶したとしても、鞠子は通訳によって事を荒立てない方向に持っていくようにしたりと、「いかに翻訳するか」「どこまで伝えるか」という部分が見所であり、話に深みが生まれていました。
翻訳と宿命。登場人物それぞれが自分にとっての「宿命」があると考えており、それをいかに全うするかに己の生を注ぎます。それはつまり課せられた宿命をどう「翻訳」するかというプロセスであり、それを「達成する瞬間」があまりにも見事でした。さらにいえば登場人物が胸中を隠すこと=ドラマを見る訴求力ともなっており、この点でもよく出来ています。
前述したとおり、衣装やメイクといったビジュアル面は本作の魅力のひとつであり、それは街や村、室内や城のアートワークでも同様です。自然光を演出した照明は画面に艶を与えていましたし、なにより役者の「顔」が良い。そう、このドラマシリーズの魅力は所作だけでなく日本人の「顔」にあると言えるでしょう。ここには異国の人間が日本人を撮ることで生まれる特別な力学が存在しているように思います。真田広之も、浅野忠信も、二階堂ふみも日本映画ではなかなかお目にかかれない微妙な陰影と美しさを讃えており、キャラクター性の良さや物語の強さがそれを後押ししているのは確かですが、それ以上に照明の当たり方、アングル、メイクなどによって日本人の「見た目」が最大出力で発揮されていました。馴染みのある情景を別の角度から映すことで新たな美しさを見出せたときのハッとするような感覚。これは『ラストサムライ』でも感じた、外からの視点による美しさに近いと思います。
そんなわけで本ドラマは主演の方々の「顔」を楽しむ作品とも言えるでしょう。
「所作」そして「顔」。それぞれの登場人物がそれぞれの思惑を持ち、どう”振る舞う”かが見所となる本ドラマにおいて、所作と顔は良い具合に作品の質を高めてくれています。「宿命」「胸中」「夢」というキーワードを序盤から散りばめることで、死生観や"秘すれば花"の考え方を見せていく過程も上手く、さらにそれら日本人の精神性を必要以上に理想化してはいないのも特徴でしょう。また、対するカトリックやプロテスタントの教義でさえ否定するようなことはしていません。ここら辺、演出や脚本がほんとよく出来てるなあと感じました。
10話における虎永と薮重の会話シーンは本作を締めくくるのにふさわしい場面だったと思います。これまでひた隠しにしてきた本心を虎永が語る場面であり、すべては太平の世のために、死んでいった者の魂を犠牲にしないために、先の先を見据えている「未来への回想」。物語はいざ関ヶ原の戦いというところで幕を閉じますが、「紅天」はすでに成し遂げられ、彼の語る夢は確かな実感を持って実現します。
そこで私は気がつきます。私たちもまた虎永の意中、いや、夢の中にいたのかもしれない、と。
このドラマに登場する人物はそれぞれに宿命があり、覚悟を持ってそれに殉じていきました。彼らの生き様は各々が何を信じ、どのようにその宿命をうけとめ成し遂げるかに注がれているのです。しかしそこで見えている光景は、虎永のひた隠しにされていた胸中の、夢の中の一部であり、最終的に彼の壮大な夢へと収束するのです。まるで私たちも彼の意のままに物語を見続けていたのかのように、まるで私たちが彼にとっての胡蝶の夢だったかのように。
私たちが『SHOGUN 将軍』を観ているのではなく、
虎永が見た夢を、私たちが生きているのだ、と。
すべてが圧倒的でした。私の今年のベストドラマ候補です。
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