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まきねぇ 自叙伝NO1

信州ブレイブウォリアーズ
後援会東京支部支部長まきねぇ

私が中学一年生13歳の冬。
父が突然他界した。
急性心筋梗塞。

当時陸上部だった私は朝練のため6時半くらいには家を出ていた記憶がある。

あの日
いつもと同じ朝

ただ
後から思えば
父が起きていない事が少し気になっていた

一日の授業が終わりHRの最中に、私の担任と二学年上のクラスの先生が放送で呼ばれ、早めにHRは終わった。
雑談しているところに担任が戻ってきた。
「帰る支度をして職員室に来なさい」

私は何か悪いことでもしたのか?

そんな事を思いながら担任について廊下を足早に歩いていた。

「お父さんは心臓が悪かったのか?」

私は何を聞かれているのか正直分からなかった。
咄嗟に
「いえ。。。。」

「お父さんが倒れて救急車で運ばれた」

この人は何を言っているんだろう。

お父さんて、私のお父さん?

職員室に行くと姉ちゃんがいた。

あの時呼び出されていた先生は間違えられていたのだった。

玄関に横付けされたタクシーに乗り込んだ。
父の親友の娘さんが迎えに来てくれたのだ。

そこで何か会話したのかは思い出せない。

私の記憶は病室で前歯を折られ管を入れられ心臓マッサージを受けてベッドに横たわる父の姿。
代わる代わる心臓マッサージを続ける大人たち。

何が起こっているのだろう。
何をしているのだろう。

母は父の顔の横で泣いている。
勿論あんな母を見るのは初めてだった。

13歳の私には目の前の現実が全く理解出来ていなかった。


拳を握りしめ腕をあげた父。

「お父さんは生きるんだ」

信じていた。

職人(大工)だった父は口数が少なく、言葉を発する時は子供心に怖く感じていた。
会話した記憶が殆どなかった。

「煙草もってこい」
「灰皿もってこい」

三姉妹だった私たちは、その都度アイコンタクトで誰か持ってきてよ、と。
それを察した父は

「まき、もってこい」

それに対して

「はい」

と言う言葉しか発することが出来ないくらい怖かったのだ。

父は、8人兄妹の三男坊の真ん中。

三姉妹の真ん中と同じかな。

後々知ったのだが、どうやら勉強嫌いで進学せずに中卒で家業の建設会社を継ぐ事になったらしい。
辛うじて高卒の私は間違いなく父に似た(笑)

あの頃の私にとって、父はただただ怖いだけの存在だった。
父の顔色ばかり伺っていた。
名前を呼ばれる度に口から心臓が飛び出るのではないかと思うほど怖い存在でしかなかった。

いつだったか母が話してくれた。
「小学校の授業参観で、誰でも分かる事を質問されて、真木子なら元気よく手を挙げると思ったら、そーっと手を挙げてるからどうしたのかと思ったわ」
と。
それは担任の先生が怖くて父といるような錯覚があったのかもしれない。
それも後に母から聞いたのだった。

仕事柄夜居ない日が多かった。
当時の建設会社は色々なお付き合いもあっただろうし、大人になってから分かった事だったが、親戚で何か問題があれば駆けつけ、近所で揉め事があれば頼られ。

やはり大人になってから聞いた話には自分の父の事なのに驚いた伝説があった。

昔はヤクザもゴロゴロいて、組抗争言うのか縄張り争いなのか、見か締め料争奪戦なのか、そんな小競り合いは頻繁にあったみたいだが。。。

その仲裁を頼まれて話を納めてきたとか。。
勿論父は堅気の人間だ。
ただ、昔はヤクザも土建屋も紙一重だったかもしれないが。

そんな父だったから、それは怖いわけだよなーと。

唯一私が覚えている父の愛を感じた事。

私の子供の頃は、スケートが主流だった。
長野県駒ヶ根市と言うところは、寒さが厳しい分雪は比較的少なかった。
その為か氷も張りやすかったのかな。
小学生の頃は毎晩スケートに行っていた。

私は自他共に認める負けず嫌いなのだ。

夏の水泳の時期には、飛び込みが上手く出来ない事が悔しくて、部活の後毎日一時間くらい飛び込みの練習をして、結果学校内でも一二を争うほど飛び込みが上手くなり速くなった。

スケートも、ただただ速くなりたくて毎晩毎晩父のお友達にスケートを教わっていた。

ある晩、スケート靴が壊れてしまった。
翌日は学年のスケート教室だった。
貸しスケート靴なんてのは頭になかった。

夜も21時とかだった気がする。

地元の靴屋さんに電話してくれて
「店にある一番高いスケート靴を買ってやれ」
と、母に言ってくれていたのだった。

田舎の靴屋さんにあるスケート靴は高いと言っても10万円はいかなかった。
それでも父のその一言が嬉しかった。
毎晩毎晩スケートに明け暮れていた私をちゃんと見ていてくれたのだ。

中学生になった。

それでもやっぱり父と会話が出来なかった。
少しづつ、本当に少しづつ言葉のキャッチボールが出来るかもしれない、、、と思ってたいた矢先にあの日を迎えてしまったのだ。

【お父さんは生きるんだ】

そう思っていた。

私は学校帰りに病院に寄って、父と仲良くなっていく事を想像していた。

そうなると思っていた。。。。

そんな事を考えていたら、急に違う医者が入ってきて
「何故こんなに人がいるんだ!!!」
と、周りの大人達に外に出るよう指示していた。

私は釣られて外に出た。

「まきちゃんはお父さんの傍にいた方がいいよ」

と言われたが、私は首を横に振った。

暫くしたら母が数人に抱えられて病室から運び出された。
過呼吸だった。

そんな母の姿まで見ていた私は急に吐き気を催した。
ただ、トイレに行っても何も吐けない。

何を
吐きたかったのだろうか。。。

どうやら家族だけが呼ばれたようだった。
親戚の人だったか父か祖父のお弟子さんだったか、誰に言われたか覚えがない。
「お父さんも頑張っているからまきちゃんも頑張るんだよ」

何を言ってるの?

お父さんは拳を握りしめて腕を曲げて生きる

って
言葉に出来ないから
身体で現していたじゃん

何を頑張るの?
お父さんは頑張らないといけないの?
そして私達も頑張る?

最終的な医者の言葉は何も覚えていない。
テレビドラマで観るような言葉でもあったのだろう。
父の顔を抱え込んで泣き崩れる母。
周りを囲んで泣く大人達。

学校帰りにお父さんの病室に寄って
部活の話をして
洗濯物を持って帰って

それは叶わない事になったの?

次に記憶にあるのは、すでに自宅に帰って座敷に寝かせらた父の姿だった。

そして今でも脳裏に焼き付いている祖父の言葉。

【おまえが一番親不孝だ】

あの頃は分からなかった。
その言葉の意味が。。。

後は、次から次へと人が来ては帰り、帰ってはまた人が来る。


何故か私は父の身体に使う脱脂綿を買いに行ったんだ。。。

その薬局は、父の親友がやっていた。

電話がいっていたのか脱脂綿をすぐに渡してくれた。

この薬局の人達は、実は父と最後に会話をした人達だった。

この日は寒い一日だった。

現場からお昼を食べるとために自宅に戻った父。
家の中は暖かかったからのか、上着を脱ぎその下に着ていた物も一二枚脱いだらしい。

また現場に行く時に一枚着忘れて出掛けた。
現場が狭い道沿いだったからなのか、珍しくバイクで行っていた。

でも。。。
それが。。。

仇となった。

バイクを運転しながら身体の異変に気付いたのか、現場近くの親友の薬局に行って
「少し休ませてくれ」
と。

その間がどれ程だったかは分からない。
「ニトロをくれ」
そう言ってニトロを口に入れた。

そして最後に
「救急車を呼んでくれ」
と。

なぜ所々鮮明に覚えているのだろうか。
何か記憶違いがあるのだろうか。

どちらにしても
何を思っても
何かをしても

二度と会話が出来ない父が目の前にいる事だけは確かだった。

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