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屋根のない病院、軽井沢

「屋根のない病院」っていったい?

避暑地、保養地としての軽井沢を見出した、カナダ人宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーは、この地を「屋根のない病院」と評した。僕は、最初、つまりそれは、野戦病院・・・・のことかと思った。それもナイチンゲール以前のだ。

どうやらその認識は全く間違っていて、「町全体がホスピスのようだ」ということらしい。

ショー記念礼拝堂とアレクサンダー・クロフト・ショーの胸像

「軽井沢に来ると眠くなる」と、よく言われる。友人がウチに遊びにくると、着いた早々うたた寝して、夜は一杯飲んで早々に寝て、朝は一旦起きるけど、昼過ぎにもまた寝ていたりする。あなた、なにしに来たの? 寝に来たの?

眠くなる町 軽井沢

眠くなるということはつまり、軽井沢って疲れるところなんだろうか、そうではなくて、この屋根のない病院は「あなたね、自分じゃ気づいてないようですけど、どうもお疲れのご様子ですよ。少しお休みになってはいかが? 一に睡眠、二に睡眠ですよ」と教えてくれているんだと思う。

来軽した友人が睡眠を十分にとり、すっかり元気になって「さあこれからどこ行こう?」っていうころには、寂しいかなタイムアップ。友は、また元の喧噪の世界に戻っていってしまう。

逆に、僕がたまに東京に行くと、時間に余裕があったとしても、なんだかずっと気ぜわしい。「もっと働こうよ! もっと遊ぼうよ!」と、街全体が僕をせかし続けているように感じる。

眠くなる主な原因は「気圧」だと思う。標高が10メートル上がるごとに気圧は、およそ1.1ヘクトパスカル下がるから、標高およそ1000メートルの軽井沢の気圧は、東京都心の気圧が1013ヘクトパスカルのとき、903ヘクトパスカル、酸素濃度は89パーセントにまで減る。こうなってくるとヒトは生命維持のため、副交感神経が優位になり、眠くなるというわけだ。ちなみに猛烈な台風、1961年の室戸台風の中心付近の気圧が925ヘクトパスカル、それよりも、ずっと軽井沢の気圧は低い。

カップ麺もパンパンにふくらむが残念ながら量は増えない

もちろん気圧のせいだけではなくて、緑の木々に囲まれ、小鳥のさえずりを聞いていれば、眠くなってくるのも当然だ。がんばって、夜の町に繰り出そうにも、ほとんどのお店は夜9時には閉店してしまう。コンビニは、もっと遅くまでやっているが、それでも11時には明かりが消える。

風景のダイナミックレンジと周波数

こんなふうに書いていると、まるで軽井沢が空気の薄い退屈な町だと思われるかもしれない。けれど、空気が薄いのは間違いないが、決して退屈ではない。

軽井沢には、その季節、その時間、その天気のときにしか見られない景色があって、毎日同じ場所にいたとしても、同じ景色を見ることは、一生のうち、おそらく二度とない。そして、季節や時間、場所によっても温度や気候が大きく違うから、風景の「ダイナミックレンジ」が広い。

青空と霧氷 ダイナミックレンジが広すぎてデジタル映像では表現しきれない

さらに、その風景の「周波数」も高い。「周波数が高い」というのは、なにも音だけに限ったことではなくて、映像にもある。おおざっぱだけど、「チラチラした動きの繊細な模様のこと」と、言ってもいいかもしれない。

例えば、そよ風にザワザワと揺らめく木洩れ日、舞い落ちる金の針のような落葉松カラマツの葉、微細な結晶構造をもった霧氷、宝石をちりばめたように輝く雪原の氷晶、かわいらしい高山植物や山野草の花々…… などなど。どれも軽井沢では、身近にあるものだ。

山野草の花々 かわいい

この広いダイナミックレンジと高い周波数を数値化、つまりデジタル情報に変換しようとすると、とてつもない情報量になってしまう。その上、葉も花も氷も、その形や色に、ひとつとして同じものはなく、人工的なパターン要素がない。これ、実は、コンピューターによるデジタル処理が非常に苦手とするところで、さらに言うと、人の思考回路もこの膨大な情報の処理に追いつかなくなってくる。

Don't think,FEEL!

では、人の脳はどうするかというと、処理しきれない情報は捨てる・・・。いや、捨てるというよりも、「考える」ことをやめて、ざっくりと「感じる」ようになる。その証拠に、ここまでの僕のつたない文章ですら、一言一句漏らさずに読んだ人はいないと思う。結構、読み飛ばしているはずだ。書いている当の本人だって、そんなに細かくは読んでない。不要な、あるいは処理しきれない情報は、読み飛ばして「感じる」ようになる。

さて、軽井沢の風景は、視覚情報に加えて、音も匂いも、ときには食感や味覚にさえも膨大な情報を送り込んでくる。そうすると、最初は、感想を「ああ綺麗な木洩れ日」とか「緑の風が心地いいなあ」だとか「ぷはー!ビールが旨い」だとかいうふうに、いちいち言語化・・・しようとする。人はだれだって、阿呆になりたくないし、それ以上に他人から「思考停止」だなんて思われたくないものだ。

しかし、しばしこの自然の中を気の向くままに歩き、ときには立ち止まり、ときには目を瞑ると、そのうち数値だとか言語だとかいった「考え」は、軽井沢の木々を渡ってきた風が塵のように吹き飛ばしてくれる。

そして、心に静寂が訪れる。

この状態を言語化する愚行を許してもらえるのなら、禅においては「只管打坐」、心理療法的には「マインドフルネス」、世間一般には「ただの阿呆」というのかもしれない。

ここは、屋根のない病院、軽井沢。「疲れた体を休めよう」だとか「心の傷を治したい」なんて身構えなくていい。ただ感じるだけでいい。自然そのものが優秀な医師、看護師となって、あなたの心を癒やしてくれるだろう。


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