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「アイ i」を読んだ

ずっとなんとなく気になっていた本を読んだ。

急に日が暮れるのが早くなって、秋らしく肌寒くなってきた。意味もなく不安になる日々。今まではこんな時期も人に会うなど気分転換をしていて乗り切っていたけれど、今年はそんな気晴らしも使えない。

「なぜ自分は生きるのか?」という人類が何度も問うてきただろう問いをあえて自分に投げかけてしまう。問うても自分自身の存在理由が分かるわけでもない。文字通り一人でしゃがみ込んでしまう1週間を送っていた。気持ちが落ち込みすぎてどうしようもなくなったので、今許されている数少ない気分転換「本屋でぶらぶら背表紙を眺める」を朝から発動した。哲学書を読む気にはならず、手にとってみたのがこの小説。連日、晩ご飯後に虚無を感じる時間帯があるんだけど、そこで不安な気持ちに飲み込まれないよう、気を紛らわすために読み始めた。登場人物もあまり多くなく、ストーリーも追いやすい。一気に読み終えた。

「相対的に見たら、あんたのしてることは間違ってる。間違ってるのとは違うか、でもあんたの言うように傲慢だと思うし、私たちに心配をかけてる。分かるよね?でも、今は相対なんて知らない。あんたは私の親友だから、それは絶対なんだよ。私はアイの気持ちを尊重する。分かりたいと思う。」(P165-166)

この小説の中で一番印象に残ったのはこの台詞。私はアイとは違って、出自について自分の存在を不安に思うことはない。でも、ずっとなんだかフワフワしている。世界の死者の人数を数えることはしていないけれど、ふと「なぜ私はここにいるんだ?」と正気になってしまうことはある。ミナの台詞の「相対」「絶対」という単語の意味がわかるようで分からなくて引っかかっている。「絶対」の方は分かるような気がするけど、「相対」という方が分からない。何かと何かを比べていて、その一つがアイの取っている行動というところまでは分かる。でももう一方はなんなんだろう?ミナが期待する行動だろうか?それとも世の中一般が期待する行動のことなんだろうか?そもそも比較対象は行動ではないのだろうか?今のわたしにはまだ分からない。

「なぜ自分は生きるのか?」という問いをネットの海に投げかけてみたところ、どうやら「生きるのは生きることだから、とりあえず毎日を生きていればよい」が模範回答になるらしい。なんだかトートロジーみたいで腑に落ちない。この小説は、きっと同じことを違う言い方で教えてくれているんだと思う。クライマックスはなんだか情景が映画みたいに想像できる。このシーンが温かいんだろうということはなんとなく想像できる。温かいシーンとして描かれていることはわかるけれど、まだ体感として温かく感じられるわけではない。いつか、自分も暖かく感じられるんだろうか。心から「生きるのは生きること」そう思えるようになったときにこの小説を読み返したい。きっと今よりずっと頭に入ってくるはず。そんな秋の読書感想文です。

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