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自己満足

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このノート機能が、PC版からもいつか消えてしまうんじゃないかと
ちょっとドキドキしている(モバイルではこの機能がない)。

好き勝手に何かを綴ることのできる“場所”が必要だから。

だれかのために書いているわけではなくて、自分のため。
いや待て、
そういう意味でいえば、そもそもSNSの投稿なんて、
全部自分のためのものだね。

その中であえて、このノート機能を特別に感じているのは、
まとまったページだからだろう。
ここに戻ってくれば、なにかしらの「心の記録」と出会える。

ごくまれに、自分の書いたものを読み返して、
「あら、ちょっといいじゃない?」などと思うことがある。
他人には世に出すに足る文章と評価されなくても、
自分では勝手に、
「なかなかちょっといい感じにまとまっているのでは?」
なんて思うことがあるのだ。。
たぶんそれは、世間に通用する汎用性があるとかいう自信を得た
というよりは、そのとき考えたり感じたりしたこと――
「そのときの感覚」をそれなりのことばで残しておけた、
という自己満足が大きい。

以前、ここにちいさな物語を綴ろうかなと考えたことがあった。
けれども、ちいさな迷い以上に、不思議なアラートがあって、
試すことはしなかった。

今ならそのアラートの意味はよくよくわかる。

ある人たちにとっては虚構の場所であり、
創作の場所にもなるのかもしれないけれど、
わたしにとっては、自分の正直な心の内を残すところであって、
物語を作り上げる場所ではない。
自分の実生活や本音が見えてしまう投稿のあるSNSの中で、
それをするのは怖い。

ここでは、受け手にとって、作りものは作りものでなくなり、
本音は本音でなくなる可能性がある。

わたしのノートの投稿がタイムラインの投稿とどう違うのか、
おおかたの人にとってはよくわからないだろう。
そもそもそんなことに関心もないと思う。

それでいいわけなので――そういうわけで、ノートも綴る。
タイムラインと同じく、別にだれのためでなく、自分のために。

ある程度のまとまった考えをストックする。
他の人にとってはがらくた、わたしにとってはたからもの、
みたいなコレクション箱かな。

自己満足。

集めてうれしいのは自分。
自分にとってのたからものを、大切にながめられる幸せ。

自分の文章を振り返るとき、気恥ずかしい思いに
さいなまれることもある。
けれども、冒頭に言ったように、ごくまれに
自分の書いたものに(いいなあ、これ)なんて思って、
落ち着くこともある。

自己満足も悪くない。

自分で自分を認めて、喜んで、それが弾みになって
次に進めればそれもまたよし!

Facebookのノートには、そんな“効能”もあるんだよね。

ああ、ほんとに、なくなりませんように。

(2019.6.25 Facebookノート掲載)
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願いむなしく、Facebookからこの機能はなくなったわけで――
それゆえにここに再掲して、今の気持ちをつづってみたりしている。
誰にでも公開、という状態でなかったFacebookの中で、ごくごく内輪的な内容だったものについては再掲はしない。ここはとてもオープンな場所だから――。
ただ、掘り起こしたり、掘り起こされたりしたものの中に、ふと何かを感じたときに、ただただ自分の覚えのために再掲している。

ところで、自己満足。

必ずしも自己肯定感とイコールではないんだな、などとぼんやり考える。
いや、自己肯定感のひとつには違いないのだろうけれど……どうなんだろう?
自分の場合、「自己満足」と評した時点で、「実はどこかに足りないものがある」と意識しているような気がする。
自己肯定感はもっとそれよりもおおまかでシンプルで、単に「これでよい」と認識しているような感じがするのだけれど、どうなんだろう?

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