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質と量

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①「昨年と同じ」は、ナシにしよう
②他部署からの依頼は最優先で
③根回しは忘れず

6月末で退職された方が送別茶話会での挨拶で
残されたという、仕事3カ条。

当日欠席したので、後日その話を聞いた。
長年勤めてこられた方ならではの、 余計なことを
一切さしはさまないシンプルなことばだ。
その方の働きぶりの断片などがひらひらと脳裏に浮かび、
その方らしいと感じ、瞬間省みることになった。

2つ目は努めてそうしているが、1つ目はわかっていても
小さなことほど「昨年同様」的にやっていることを思い返す。
3つ目など、いまだうまく体得できていないと痛感する。

ふいに、「質と量」ということにも思い至らされた。
質より量、という考え方はなく、プライベートではむしろ欲張りに
「質も量も」、なのだけど、仕事では なかなかそうはいかない。

ある程度「量」はこなせているとは思うが、それはほんとうに
「量だけ」のような気がする。
手を抜いているわけではないが、それでも「質よく」働いている
とは言い難い、と。
職人、という言い方がふさわしいのかはわからないが、
職人仕事と言えるような働き方はできていないだろう、と。
そんなことを連想するのは、退職された方には、 なんとなく
職人気質みたいなものを感じていたからなのだろうか?

とはいえ、事務における職人とは何なのか。
わかるようでわからないところもあるし、自分が職人仕事を
目指しているかというと、そういうことではないようにも思う。

仕事そのものに手を抜いているつもりはまったくないが――
力及ばず不足の多いことはあっても――自分がこの世で果たすべき
つとめそのものを、きちんと果たしているのかということについては、
いつも懐疑的である。

ただただ使い捨てされるものを生産している気がするときもあるし、
なにを生みだすでもなく、ただひたすら動力であり続けている、
と感じるときもある。
どれもそのときどきには必要な働きだと信じてやってはいても、
結果的に仕事全体の質を高めることに貢献しているのか?
という点については甚だ疑問。

そんなふうに行きつ戻りつ、愚かしく考えをめぐらせながら、
何日もかけてつらつらとちびちびと書いているのだけど――。

この間に、そんな自分にも求められていた役割が、いよいよ
終わりになったのだと思えることがあった。
実はもっと前にお役御免になっていたのではないかとも思う。
ただ、自分がほったらかしにしていて、きちんと「済」印をつけて
いなかっただけかも?と思いながら。


――それにしても、どうやら毎年7月あたりは、「働くこと」「働き方」について考えさせられるらしい。
自分の生き方を考える、ということにつながっているよね。

一つとして同じ日はないはずで、あと残りの人生の年数、日々を
どれだけ良質な時間で満たすことができるのか。
どれだけ自分らしく生きていけるか。
なにを信じて、なにを大切にして、過ごしていくのか。

量よりも質。

忘れずにいよう。

(2017年7月19日 Facebookノート投稿)

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自分でなんだか新鮮に読み返してしまった。
そして、この当時そうであったように、ちょっとだけ内省というか謙虚を覚えた。

この頃までは、自分自身の仕事に関する達成感はかなりあったほう。
でも、この1年前に部署と立場が変わったことで、達成感や充実感は少し味わいが違うようになっていた。

 好きな業務から離れたこと。
 抱える部下が変わったこと。
 部署をかけもちすることで、考え判断する事項が増えたこと。
 自分の持っているスキルが妙なところで役に立ったこと。
 やや孤独にはなったこと。

一生懸命働くことに努めたのには変わりはなかったけれども、立場が変わり、中枢に近くなると周りが少しずつ変わってしまうということを知った。
その後二度ほど部署異動があったが、役割はさほど大きく変わらない。業務の管理・監督・推進――どこへいってもすべきことの大枠は同じ。

このFacebookノート投稿のときには、7月は働くことを考えさせられるなどというようなことを書いているが、季節もの的な感覚はもはやなくなっていて、「働くこと」「働き方」についてなにかしら感じさせられることが増えてきている。

「働き方改革」、「ワークライフバランス」などということが話題になり、遅まきながらわが職場でも休暇がとりやすいようにと提案させてもらっているところだが、休暇をじゅうぶんに楽しむ背景にある業務の充実という点については、人によって意識がまちまちだなと思わされることが多い。
それは世代差か個体差か?
むかしは世代差だと思っていたが、今は個体差だろうと考えている。

良くも悪くもだれと仕事をするかで方向づけがされる部分もあり、それには年齢はあまり関係ない。
ただ、”だれと”の「だれ」は影響力が大きいものだ。

「だれと働くか」。

「だれ」によって、業務の質・量とがともに上がる人もいれば、量も質も下げるひともいる(下がる、ではなく、下げるのだ)――もちろん、「だれ」の影響も受けず、量も質も据え置きというひともいる。業務にのみ忠実である場合だ。

うちの職場は全体の規模も小さいし、さほど年代のバラエティに富んだチーム編成もない。若手らしい若手などもはやいない。年齢構成としては30代<40代<50代、という感じ。
この年齢構成割合の影響が少なからずあるのだろうが、30代に若さを感じる場面が、残念ながらはほとんど見られなくなっている。
年長者の割合が高いがゆえに、若手がその影響を受けている確率が高いのは確かだ。
とはいえ、易きに流れるのが年長者ばかり、という構図ができているわけでもない。

年齢が上がると影響を受けない・変わらない、というひとの割合はたしかに多いかもしれないが、いくつであっても新しいことにチャレンジする人はいるし、変化したり成長したりすることもある。
加齢(!)のためにこなせる量が下がってしまうことがあっても、必要量を質を高めるように努めることもできる。

「だれと働くか」。

成長痛を実感したことのある自分自身は、それでも労働者としていつも未熟であることを痛感する。
ただ一点、この「だれと働くか」の中で、自分の業務の質と量と向き合い考え、こなしてきたことはたしかだ。
いちおうの管理職として、「だれとだれを働かせるか」をともに考える機会を与えられるようになって、苦しい思いもしたし、今もしている。
根回しの必要性もぐっと身近になり、限られた人材での適材適所に悩み、自分自身、守りに入りたいと思ってしまうことだって、正直ある。
それでも、逃げずに最善を尽くすように努めようと続けている。
今はまだ。

仕事に限らず、新しいこと、やったことのないことにチャレンジするのは、なかなか勇気のいることだ。
年齢が足枷になることもある。
が、しかし、この先いつも・いつまでも、ずっと同じということはない。
同じように思えて同じではないはずだから、変化はいつも起こりうることだから。

そうだ。
それこそ、「昨年と同じはナシにしよう」、なのだ。

変化を受け止めて前進できるような自分でありたいと願う。
前例に甘んじない、固執しない。
仕事であれ私事であれ、どんな場でも最善を考える。
最善を尽くせるように働く、生きる。

「量よりも質」。

このことは変わらずに大切にしていきたい。

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