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旅と酒は相手を選ぶ

わたしにとっての絶対的真理・信条――「旅と酒は相手を選ぶ」。

旅もお酒も大好きだけれど、何でも・だれでも・いつでもいいというほどオープンではない。
単に、引きこもり系的クローズドな体質からくるものでもある。
瞬発的な社交性はまれに発動することがあるけれど、基本的に社交的ではないのだ。

旅好き――とはいえ、旅慣れていると言えるほどではない。でも、乗り物での移動は好きだし、乗っている間にはいつも、思いがけず物語が始まりそうなわくわく感を覚える。
地図も好きだ。「読める女」というわけではないが、ただただ楽しい。楽しいと思える。
町のかたちを見るのが好きだからだろう。

一人旅は、ちょっと勇気がいるので、あまりしない。そもそも人見知りだし、食事どきにバリエーションが限られてしまうのが残念だから。
気軽にできるときもあるけれど、それは自分のフィールドだと感じるようになった場所が行き先の時くらいである。

どこそこを訪れたい・これを見たい・あれを食べたいなどという、はっきりとした行動目的のある旅もあれば、ただ漠然とその土地に行き、空気を味わい見聞したいという、あいまいな動機の旅もある。
スケジュールは綿密には立てるほうではない。一つメインを決めて、あとはなりゆきに任せることが多い。
行った先では、できれば街のかたちがわかるような散策をするのが楽しみだ。お店をひやかしたり、名物と言われるものを探してみたり食してみたりしながら――そうして、サプライズやハプニングにも遭遇することも。

旅仲間というのは、それを一緒に分かち合えるひと。
起きた事柄に怒りや焦りを感じることはあっても、一緒に解決できるひとがいればそれもまたあとでよき思い出になる。
最後には笑って楽しんで、同じような気持ちで一緒に振り返ることのできる相手――気を張らず、お互いの時間を尊重できるかどうか。

お酒も同じだ。
あ・ただ、これはお酒と言わず食事そのものにも言えることだけど――どれほど高価で、どれほど稀少なお酒であったとしても、席を共にする相手によっては、じゅうぶんに楽しむことができない場合もある。
気が合う・合わないといった相性はもちろん、初対面であるかどうかや、お互いのポジションなど、理由はさまざま。
味を感じられない、あるいは味を感じることはできても、味わいを深めることができない、気持ちよく酔うことができない――そもそも飲んだ気がしない、となってしまうひとたちもいるのだ。

当然のことながら、気の置けない心安いひとと一緒だと、お酒を味わう楽しみ・喜びはぐんと広がってくる。
ともに過ごす時間の豊かさが格段に違い、その時間に生まれるインスピレーション、イメージなどが違ってくる。
洗練されたとまではいかなくても、思いもよらなかったようなアイディアがふってわいてくるようなことがある。

望まないけれども参加しなければならない旅、付き合わざるを得ない、アルコール不可避の宴席は、もちろん今もある。
研修として必要な旅であったり、人間関係をいくらか構築するためには必要で、社会勉強の一つであったとも思う。今現在も、なにかの潤滑油のような役割を果たす機会になる場合もある。
多少窮屈に感じたり、ストレスを覚えたり、心の底から気持ちよく笑って酔えたり過ごせなかったとしても、それはそれで必要なステップなのか。
いずれにせよ、そういう旅とお酒の時間も経たからこそ、自由を感じる喜びを得られたともいえるのだ。

同じ道ゆきを歩く、あるいは、同じテーブルで酌み交わす相手によってその時間が変わっていく――そりゃあ、あたりまえのことだよと言われるだろう。
そうだ、あたりまえのことだ。

年を経て、いろいろなことが自分で選択できるようになって、「望むとおりに選択したい、旅も酒も」という思いがまさってきてしまった。
とても単純で本能的な願いごとが。

「旅と酒は相手を選ぶ」。

限られた時間を、心地よい空間で過ごしたいと望み、そのように整える。
もっとも安心できるコンディションで、その空間と時間を楽しみたい――ただそれだけの純粋な信条をもって、また次の旅と酒を追い求めている。

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