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なぞらえる

(2020年のつぶやき掘り起こし)

この数か月、コロナ騒ぎが右肩上がり、
とりわけここ数日わたしがつづっていたのは
それに関するお知らせ文書ばかり。

もちろん、仕事としては大事なことだ。

個人的には不本意な決断であっても、
その通知を受け取る側には関係がない。
いずれにしても、誠心誠意でつづることは
大切だと思い、その姿勢だけは崩さないように
気を付けてはいる。

けれども、そういう地味なところが理解されることは
ほとんどといってないし、
むしろその決断内容や報告内容に対して、あっさり
批判的ご意見をいただくこともある。

そういうとき、たとえどんなにことばを尽くしても、
ひそやかにそういう思いがあっても、
意味がないのだということを痛感させられる。

まあ、そういうことに一喜一憂していても仕方がない。
少しばかり落ち込んで、頭を切り替える。

自分はオンとオフの切り替えは、比較的うまくできているほう、
と思っていた。
ただ、ここ数か月はそういうことがうまくいかないくらい、
気持ちが裂かれるような状況でもあった。
トゲとかささくれのようなものがおさめられない状態で、
家に持ち帰ってしまう――
自分だけがしんどかったわけではないともわかっているが、
コントロールが難しくなってしまった。

コロナ騒動で、心に小さな闇の種が落とされていることも
否めない。

「こんな状態の自分はいやだ!」

強く実感しているのは、 人間は「災い」に弱いのだということ。
試練として受け止めるのが難しいことはほかにもあるが、
とくに「災い」と呼ばれるものには途方に暮れてしまう。

小さな不安が心を蝕み、人に対して疑心暗鬼になり、
誰か・なにかに帰結させ――生贄とでもいうような存在を
作りあげたくなる。
自然と。

「不信に満ちた空気」とでもいうべきものが、じわじわと
蔓延してきていると感じる。

「自分はこんな状況に染まりたくない!」

抗うだけ無駄だと言われても、しかし、耐えられずそう叫ぶ。
ゆうべ、悪気がないこともわかる、むしろ言っていることも
間違ってはいないとは思うメールに、なぜか沈んだ気持ちに
させられた。
返事を書く気力が持てず、とりあえず床ゴロ。
今朝起きて、また別のメールに向き合い、とりあえず返信するが、
それを終えて、やっぱりなんかしっくりこない、と思う。

外出自粛。
それも悪くない。
家にいるのは大好きだ。

だけど、こんなもやもやしている自分はおかしい。

唐突にそう思い、もはや酒蔵兼物置になりつつある
防音室兼仕事部屋をかき分けて、
スピネットのもとへ。

少々窮屈だし、正位置に椅子が置けない不自由さはありつつも、
とりあえず鍵盤に向き合う空間を確保した。
本当は調律すべきかな?とも 思われたが、段取りを
すっとばしてでも、ただただ弾いてみたかった。
ひととおり音を鳴らすと、決定的にダメという音もなかったから、
「インベンション」の楽譜を取り出してみる。
いちおう、1番から弾いてみたけど感動したのは4番。
不真面目な生徒だったので、あまり書き込みがない。

鍵盤に触れるのはどれくらいぶりだろう?
かなり久しぶりだから、指が動かないだろうとは
思ったけれども、それでも弾いてみる……。

……!

想像していたよりは、弾けた。
つっかえるけど、でも、なんていうんだろう、
楽譜がとてもなつかしく読めて、
そのおもしろさを再度実感する。
運指に意味があることも思う。
たどたどしくも指が覚えていることもある。

そしてなにより、
インベンションのうつくしさに感動した。

音の並びは非常に整然としている。
でも、なぜか心の動きになぞらえるつくりになっている、
いや、心を合わせていくことができるつくり、
なのかもしれない。

意味あるうつくしい構成に触れて、心が躍る。
頭の中も、もやもやが消えてすっきりしていく。

バッハをいつか当時の楽器で弾きたい、
という憧れで習い始めたのがチェンバロだった。
インベンションを弾くことになったとき、
楽譜の読み方を教えてもらいながら、
これが単に練習曲ではなく、一つひとつの曲としても良い、
とはたしかに感じていた。
けれども、こんなに時が経ってから、
そのうつくしさをこんなに新鮮に、うれしく
感じることになるとは!!

楽譜を繰り返し読む。
左手、右手、それぞれの音をたどる。
合わせる。
なんと意味深い。

そして、自分の感覚をなぞらえて弾くことの、
なんと楽しいことか。

つたなく、たどたどしい指使いながらも、
次の音へと進めていける喜びがある。
音符に表される曲と頭の中で描かれるイメージが
一体になるときがある。

これはまさに解放の瞬間!

ミスタッチがあるかないかではない。
(ないほうがいいに 決まっているけど)

そういえば、同じようなこと――そうだ、
かつてレッスン中に味わったことがあったなあ、
と思い出す。

きょうはインベンション4番だったけど、
そのときはシンフォニア11番だった。
このときもミスタッチはあったけど、弾きながら、
「曲と一体化する、ってこういうことなんだ」
と体じゅうで感動するという、生まれて初めての経験だった。
先生がほめてくださったこともあって、
自分でもいい演奏になった、という感覚だったのは
間違っていなかったのだと思う。

それと似たような感覚だった。

なぞらえられる何かがあるって、なんて幸せなことだろう。

このところはずっと、大好きな「ことば」を駆使するも、
消耗することで終わっていた。
本来は、「ことば」もわたしを解放してくれるものなのに。

でも、きょうはバッハに――ごぶさたしていたスピネットに、
インベンションの楽譜に、救われた。
心をなぞらえることができるものが、近くにあった。

「なぞらえる」

心をなぞらえる。
すべての旋律が聞こえてくる。
すべての音符に心が合わさる。

すりきれさせてしまっていた自分の心の皮が、
静かにきれいにふくらんでいく。
解放の瞬間へ、一気に昇華する。


そして今、わたしはそのことをつづっている。
書くことで、また新たに解放される。

不安材料も現実も変わらない。
けれども、久しぶりにすっきりして、週末を終えられそう。
感謝とともに。

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Facebookノートからの再掲。
またこのあとから、思い出したように鍵盤にさわることもあるけれど、すっかりご無沙汰……。
もともと不器用な怠け指だから、ますます動かなくなっているだろうけど、せっかく新しい春が来るのだから、ちょびっと片手練習なぞ始めてみようかな。
このときの気持ちを思い起こして。

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