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ひとり時間

久しぶりにひとりで演奏会に出かけた。

念願の平均律クラヴィーア曲集第2巻全曲演奏会で、鈴木優人さんのチェンバロ。
何年ぶりだろう、チェンバロ一本の演奏会は。
もしかしたら、それこそ鈴木優人さんのゴルドベルクの全曲演奏会以来かもしれない。

以前開催された第1巻の全曲演奏会は、残念ながら日程都合上難しくて行かれず、非常に悔しい思いをした覚えがある。いずれCDで聴けるというニュースはあるけれども、会場で聴く喜びとはまた別だ。
今回は日程が発表されて、それが行ける日程だとわかり、どれだけ喜んだことか!
指折り数えて、とまではいかなかったが、年初めの楽しみとしてチケットを大事に飾っていた。

自宅から最寄り駅まで、てくてく。
飯田橋駅からトッパンホールに向かっても、てくてく。

てくてく歩きながら、ひとりで聴ける喜びもあるよなあ、と心躍らせて向かっていた。
たぶん、こういう時間が必要なんだ、と。

うちには子どもがいないので子育てにもかかわっていないし、義母も実母もおかげさまで元気で、わたしはいまだ介護も担ってはいない。
自宅でも、それなりに「ひとり」でいる時間もあるほうだ。
でも、そんなわたしでも、「ひとり」の時間を味わいたいと願うことがあり、きっとそれは自分にとって必要なことなのだ。

そんなことを思いながら会場に向かう。

ホールに入るとステージでは調律中。
ここから出てくる音への期待感! ああ、ほんとうに久しぶり!

シックで華やかでうつくしいチェンバロ


チェンバロ演奏を聴くときはいつも、最後の音ひとつまで聞き漏らしてはならぬと、普段見られない集中力が発揮される。
とくにバッハのときは。
チェンバロで聴くバッハはいつもどこか明快で、胸のすくところがあるからかな。
それこそ一音一音考えられてなされている配置で、その音は意図あって選ばれてそこに連なり曲を成しているのだということを感じる。
その緻密な意思が演奏者を通して、こちらがわにやってくる。ちいさなビーズがふりまかれてやってくるみたいな音の粒は、どれも特別なものだから、これを全身で感じて受け止めたい――と願って席につく。

音を感じるならば中央から右側がよいと教えてもらったことがあるが、自分の視線の癖もあって、ステージに向かって左側前方の座席が好み。手元が少しでも見えるところ、というのもある。

音の粒を生み出す指運び。
演奏者の背中。
鍵盤の動き。

流れてくる音を受け止めながら、ひととき集中する。

自分の中のあれこれ、その日までのできごと一つひとつ、気にかかっていることいくつか、そういったものと無縁になれるわけではない。
ただ、演奏会中にふいにそういったものがシミのごとく浮かびあがってくるのだとしても、不思議とクリアに整理されていくことが多い。
それまでざわつき落ち着かない心持ちにさせられていたできごとも、「そのままにしておいてもいい」とか「なるようになる」というおおらかな気持ちでの受け止められるようになったり、解決を求めていたことになぜかふいに「こうすればいい」という思いつきが与えられたり……。
音楽で心がたいらになったところで、シンプルに考えられるようになる、ということかもしれない。

今回の平均律クラヴィーア曲集第2巻全曲演奏会も、またしかり。

一連の音の粒でざらついた心がなだらかに整えられ、沁みこんでくる。
きょうもまた。
鍵盤の上ですべらかに動く指の姿もうつくしい。
そんなうつくしい指運びから紡がれる音は、やはりうつくしいのだと知らされる。
一音一音。
一粒一粒。
磨かれたきれいな音が、丁寧にこちらがわに届られてくる。

CDで聴き比べをするときは、つい自分の好みの曲(第2巻でいえば、2番・5番・13番・15番・18番)で判断しがちだけれど、演奏会でじかに聴けるときは関係なくなる。その演奏者の考えている世界にがっちり連れていってもらえる楽しみがある。

全曲いずれも大切に準備してこられたこともわかるひととき。
贅沢な時間。
前半が終わったとき、そう感謝せずにはいられなかった。
ただただ没入する感覚に包まれ、感じ入って、ありがたくて、うれしかった。

あいだに休憩がはさまれる。にしても、演奏者は疲れないんだろうかとちょっと心配になる。もちろん素人の自分とは違って、演奏者には「これくらいあたりまえ」なのかもしれないけれども……指がもつれることなく、描かれている思いも途切れることなく伝わってきて、第2巻のページが進んでいく。
そして勝手なもので、終わりが近くなってくると、いつも寂しい。見開きで置かれた楽譜の右側が白紙のページになったのを見て、ああ、終わってしまう……と。

旅にたとえて表現されているのを見たけれど、なるほど全曲演奏会はこれはこれで一つの旅だ。

拍手に応えて、最後ご挨拶くださった最初のひとことは「お疲れさまでした」だったが、聴衆はだれひとり疲れていなかったのではと思う。
午後3時から始まり終演は6時近くだったが、とてもそれだけの時間が経っていたとは思えなかった。
少なくともわたしは。
ふだんはめったにない集中力・持久力が発揮されたにもかかわらず、疲れるどころかかえって、浄化された静かなエネルギーが蓄えられたような気持ちでいた。
自分の中のなにかが生き返ったような。

そして、元旦の能登半島地震のことに思いを寄せ、バッハの時代にも大変なことはあっただろうが、そんななかでも彼は音楽を作り続けたこと、だから自分たちも自分たちのできること、ご自分も音楽を通じてできることを考えて続けると締めくくられた。
わたしの拙いまとめではうまく伝えられないのだが、やわらかなトーンで、相手を思っておられることを感じさせられる語り口だった。
そのうえでの、平均律クラヴィーア曲集第1巻の第1番前奏曲。
アンコール曲として弾いてくださった。

これは祈りなんだ、と思ったら、覚えず涙が浮かんでしまった。演奏中もゆるゆるあふれてくる。
なんてやさしく可憐なんだろう。

第1巻第1番の前奏曲。
ゴルトベルク変奏曲の最後に再び主題のアリアが登場するみたいに、クラヴィーア曲集はここに帰ってきた。
そして、いったんお別れ…………。

すべてを結ぶすてきなアンコール演奏だった。

この日の、この瞬間感じたことをだれかとわかちあいたいとも思ったけれども、”ひとりだからこそ”と気づく。
少しでも丁寧にこの気持ちを言語化して、少なくとも自分にとっては感受性を刺激され、心を立て直されたようなきっかけを得た、たいせつな記憶の一つとして、素直に残しておけばいい。

ひとり時間の意味。

ひとりでよかった。
ひとりだからこそ、生き返らせていただけた。

それをじゅうぶんに感じ、味わえたしあわせなひととき。

鈴木優人さん演奏の「平均律クラヴィーア曲集」(第1巻・第2巻)がCDとして世に出たら、またあらたな感動とともにこの日の感謝を反芻できるに違いない。

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