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自宅療養期間に思ったこと(3)

心あたりや、ふだん感じていながらうまく整理できていなかったことを、ちまちまと言葉に吐き出す作業などをやってみた自宅療養期間だった。

思ったことについて(2)まで書いて実感したのは、「感じる」時間をゆっくり与えられたのだということ、そしてそれは、やはりありがたかったとい
うこと。

はじめ自宅療養を長めにとるように助言されたときは、配慮への有難さと同時に車は急には止まれない、みたいな感覚で「なぜ?」が大きかった。
今思えば、自分のモーターだけがカラカラカラカラ勝手に回っていただけのことで、他人から見たらなぜもなにもない話なのだ――たしかに帯状疱疹は「病」ではあるのだから。

そうして半ば強制的に与えられた時間に、断片として散らかっていたものがよくよく見えるようになり、それらを拾い集めては捨てたり、あるいはことばにすることで自分を少し整理できた。
どれもこれも、たいしたことではない思考内容だけれども、でも、自分の中ではそれが消化不良で――たまった膿みたいな重さで、さりげなく影響を与えていたんだろうと思う。

自分が、埃にまみれてなんとなく薄汚れてしまった、かつては白だったシャツ――みたいな感覚をずっと味わっていたことにも気付く。
なんだろうね。
すがすがしいまぶしい白シャツを見ながら、むかし、わたしだってそんな白シャツだった気がするのにな、的な。

…………。
…………。
…………。

午前中は比較的頭もすっきりしている。起き抜けさえ乗り越えれば、痛みもさほどではなかったので、午前中にまとめて仕事メールを確認していたが、早く返事したほうがいいのかな~、でも今日ではなくても大丈夫かな~とか振り分ける。
午後になってくると、なぜか痛みかゆみの頻度が上がり集中力が途切れる――なので、そんなにしょっちゅう確認して対応しようという気になれない。
それでも悲しいかな、スマホにやたらに通知が出てきてしまうので、気は休まらない。

でも、ふだんの休日もこんな感じだなあとよぎる。

土日はまあまあがまんできる。
ただ、「自分が確実に休むためにとった休日(有休やら振休やら)」は、なかなかリセットできていなかったのかも、と。
振り返ってみると、日々いつもなんとなくなにかに駆り立てられるような気持ちになることが多かったかもしれない。

「追われないようにしよう」とするあまり、自分を先へ先へ進めようと駆り立てて――つまり結局自分で自分を追い立てていたんだろう。
早く進めれば早く終わる。
そのぶん、また次のことが早めにやってくる。
なので、また早めに進めようとする。
一歩前へ進むたび、一歩さらに先んじて進もうとするがゆえに、無駄にひとりで追い立てて駆り立てて、疲れてしまっていたのではなかろうか。

時間が足りない。
少しでもゆるみが生まれるように、進めるだけ進めておくのがいいのに違いない。
でも、「急いては事を仕損じる」のだから、自分で自分を慌てさせるようなことはしない、落ち着いて――「慌てず急いで」やっていこう、と思っていた。

ただ、要領が悪いせいか、自分では意識していなかったけれど、スピードアップの結果、急いているだけになってしまっていたのかもしれない。

Racing my heart.

正しい表現かどうか、ふとそんなフレーズが浮かぶ。
もしかしたら、ポジティブな意味で使われるフレーズなのかもしれない?わからないけど――。
鼓動が早まり、カシャカシャ音を立てて車輪を漕いでいるような……そう、まるで、ハムスターが車輪の中を回っているみたいな自分の姿を表すことばとして浮かんだようだ。

なぜそんなにも追い立てられたように走ろうとしていたのか?
(実際には走れなかったのだが……)

つかまりたくなかったからだ。
染まりたくなかったからだ。

こうして振り返ると、休みに入る数週間前から、この感覚はあったのだ。

染まりたくない。
汚さないでほしい。
最後の自分の砦を。

いや、「最後の」なんてつけてしまうと、とてつもない危機的状況に思えるのでよろしくない――とは思っても、そういう気持ちにさせられることが多くあった。

そう、ごくごく単純なこと。

人の悪意に、ネガティブな発言に、悪気なく明るく"正義”を主張する態度に、辟易し食傷してしまったのだ。
そういうことには負けたくなかったのに、なんとなくからめとられていたような気がする。

悪いもの。醜いもの。汚いもの。
目から、耳から、あらゆるところから入ってくる。いつでもするりと入ってくる。

わたしの”領分”に侵食してくる”悪いもの”。

わたしの”領分”――とは、想像を生み出す純粋な部分で、心が解放される創造の源。ほんのひとかけらほどしかないけれども、この火種のような部分をおびやかされたと思っている。

わたしの私的な領地にまでやってきて、踏み荒らされるような感触。
なぜ、ささやかな明るい希望を奪うのか。
なぜ、想像する余地を与えずに時間を奪うのか。

一言でいえば、「疲れてしまった」のだ。そういうネガティブな、じっとりとした圧力に向き合うことに。

くたびれていたんだ。

でも、あと少し、あと少しで夏休み。
夏休みに旅に出る日まで、走り切れば逃げ切れる…………そうして充電して取り戻すんだ、と思っていたのに。

足をとられ、転び、そして、つかまってしまった。
帯状疱疹に。

そうして一か月の療養期間を得て、すきとおった時間を取り戻す。

「すきとおった時間」?

日常生活なので、どうってこともない。いえば、ふだんいない時間に家にいることの不思議と、なじみのない平穏みたいなものを感じただけなのだが――それが、わたしの中では「すきとおった時間」になっていった。

なぜなら、(1)で書いたように、ふだん目にすることのないうちのひとの家事をすすめる様子で、平穏な感謝を得たから。
そして、(2)で書いたように、差別化されていないと見えるテレビの未来(と書くほど真剣じゃないけど)に、この世界が、だんだんと悪気のない悪意に満ちていっている、と感じたから。

そういうものがクリアに見聞きできて、感じる・考えるゆとりができるようになった時間が与えられたのだ。療養期間というかたちで。

家は守られている。
けれども、社会はやはり、ちりちりとした厳しさを持っている。それは職場環境も同じ。
それにくたびれていた自分がいて、体が先に「発言」したのだな。
思考が循環して、なんとなく腑に落ちる。

まとめてみると――そんなもの必要ではないのだろうが、自分のために――この、自宅療養期間に思ったこと(3)は、今までも目の前にあったし近くにあったけれども、「すきとおった時間」がなければ気づかなかったことがあるのだ、ということ。

抽象的になってしまったけれども、とりあえず今、療養期間を終えて振り返って記録として残しておくとなると、こうなる。

このすきとおった時間に得たもの――考えたことが、なにかに潜り込んでアイディアになって、なにかが生み出される。
きっと、たぶん。

染まりたくない・つかまりたくないと逃げようとしていた気持ちを思い出せたことで、ちょっとだけ自分らしさを取り戻していることも実感しているから。
たぶん、きっと、時間が少しかかっても、なにかを創り出せる気がしている。

これだけまとまった療養休暇をいただくのは、最初で最後になるかもしれない――いや、最後にしたい。

すきとおった時間は終わってしまったが、それでも少しクリアになった心と頭を使って、ゆっくり慌てずかたつむり。
蝸牛の歩みも捨てたものではないはずだから。


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