ドラゴンクエストとドラゴンウォーリアー

 先日、海外版のドラクエであるドラゴンウォーリアー1~4をプレイしました。始めるまでは、海外版はデモが追加されていたり、1と2ではバックアップメモリーのおかげで復活の呪文がなくなっている、などの良い点のみを知っていたのですが、実際にプレイしながら海外プレイヤーの声を聞いているうちに、ドラクエの国内外での認識の差や、様々な問題を知ることができました。細かいデータなどは不明点も多く、憶測も混ざっていますのであまり信じすぎず、一人の感想程度に受け止めていただければと思います。

ドラクエが登場するまでのRPG

 海外版の話をする前に、ドラクエが登場するまでのRPGについても簡単におさらいしてみます。知ってる方にとっては退屈でしょうから適当にスルーしてください。
 かつてテーブルトークRPGをコンピュータ上で表現しようと様々なゲームが開発されました。その中でもウルティマ(1981)とWizardry(1981)はその表現やシステムの素晴らしさが多くのコンピュータRPGへ影響を与えました。その流れを受け、日本でも多くのコンピュータRPGが作られました。ブラックオニキス(1984)、ザナドゥ(1985)などなど…いずれも日本のパソコンゲームを代表する人気作でした。こうしてRPGは日本でも注目されるジャンルとなっていきましたが、残念ながら当時はパソコンを持っている一部のゲーム好きのためのものでした。
 1983年にファミコンの登場により、小学生でも高品質のゲームを家庭で楽しめるようになったものの、ファミコンでRPGなどまだ夢物語でした。当時のファミコンは容量も少なく、セーブ機能がないため、長く楽しむRPGには不向きなハードでした。現代の家庭用ゲーム機からは想像しにくいかもしれませんが、この時代の家庭用ゲームはアーケードゲームからの影響が強く、数分で遊びきれるゲームが多かったのです。家庭用ゲーム機ならではのゲームが考えられるようになるには、ハード性能も市場規模もまだまだ小さかったのです。ファミコンの登場、そしてスーパーマリオブームによって市場規模が拡大することで、ようやく家庭用ゲーム機で何を作れば売れるのか? そうした考えを持つ人たちが集まってくることになります。

堀井雄二の挑戦

 堀井雄二氏はドラクエの開発の前に、まずはポートピア連続殺人事件をファミコン向けに移植しました。当時のファミコンキッズたちが、ポートピア連続殺人事件のような文字を中心としたゲームを楽しんでくれるのか? また、ファミコンでそのようなゲームが開発できるのか? そうした意欲を感じるタイトルでした(確かそういう流れだったと記憶してます)。
 ポートピア連続殺人事件で手応えを感じた堀井雄二氏は、いよいよファミコンでRPGに挑戦することになります。この無謀ともいえる挑戦に、同じくRPG好きの少年ジャンプ編集部の鳥嶋氏が協力し、ジャンプ誌上でドラクエとは(そしてRPGとは)どんなゲームなのかをわかりやすく解説。さらに、ジャンプだけでなく日本のお茶の間で、すでに不動の人気を得ていた鳥山明先生をキャラクターデザインに据え、盤石の態勢でドラゴンクエストを1986年5月に発売。予想以上の反響から矢継ぎ早にドラゴンクエストⅡ(1987)、そしてドラゴンクエストⅢ(1988)を発売しました。その結果、子供から大人まで幅広い層にRPGを浸透させ、様々なドラクエフォロワーともいえるゲームを産み、さらにファミコンの様々なジャンルに『敵を倒して成長・アイテム購入』といったRPG的要素が盛り込まれるようになっていきました(恐らくパソコンではすでに同様の要素を持つゲームはあったと思われます。ここで大事なのはファミコンゲームの変化=子供たちが遊ぶゲームの変化です)。もう一つ重要なのは、子供たちがゲームを長時間、根気よく遊べる土壌を築いたこともあります。それまでのゲームがアーケードスタイルで数分ていど楽しむゲームが多かった時代に、何十時間もかけてキャラクターを育てるゲームが(一部のマニアだけでなく幅広い層に)受け入れられました。これは後のゲーム業界を一変させていくことになったと言えます。
 ここまではおよそよく知られることですので、間違いはないと思います。間違いあったらごめんなさい…。

海外版ドラゴンクエストの発売

 上記のように日本では大躍進を見せるドラクエですが、海外展開はすぐには行われませんでした。海外版ドラゴンクエスト(以下DQ1)ことドラゴンウォーリアー(以下DW1)はなんと1989年発売でした。1986年のDQ1から3年も遅れています。理由はわかりませんが、この遅れのあいだに日本ではファミコンがどんどん進化しました。正確に言うとファミコン自体の進化ではなく、カセットが強化されました。大容量化が進み、バッテリーバックアップによるセーブ機能を採用するゲームも増えていきました。そのため、DW1ではDQ1の倍の容量となり(64KByte→128KByte)、バッテリーバックアップが採用されました。
 ここでちょっと寄り道ではありますが、日本語版から海外版へ翻訳するときにどのような問題が起こるかを簡単に触れておきます。まず何といっても、文字数が単純に増えます。日本語よりも英語の方が単語の文字数が平均して倍近く必要となります。また、この時代、英語は1byte、日本語は2byteで扱うことがありましたが、日本語でも漢字を使わなければ十分1byteで収まります。ですので、単純に文字情報が倍加するため、同じ容量で英語化するのは難しいといえます。容量以外でも、画面のデザインも変更する必要があります。以下はDQ1とDW1のステータス画面です。

海外版ではアイテム名が2段で表示され文字数も多くなっている。

 文字数が多くなる以上、画面に収めるためにウィンドウのデザインを調整しているのがわかります。
 翻訳の問題だけでなくもっと厄介なのが、日本と同じようにRPGをNESで遊んでいる子供たちに浸透させるために、周到な準備が必要となることでしょう。アメリカはRPGの先進国でしたが、だからといって子供までRPGを遊んでいたわけではなく、やはりパソコンを持つ一部の人たちのものでした(やや憶測です。これについては、一部の海外プレイヤーの声ではありますが『RPGはアメリカでは人気がなかった』という話も聞きました。むしろアメリカで生まれたジャンルなんじゃないの? という気もしますが…。少なくとも彼が子供のころは、世のRPGはそのように映っていたのでしょう。日本でRPGがパソコンユーザーのものとされていた時代を考えれば、決して想像に難くありません)。
 とはいえ、日本でのドラクエブームはドラクエⅢ(1988)~ドラクエⅣ(1990)で最高潮を迎えてます。このブームをなんとかアメリカにも持ってこれれば…そんな思惑を感じるかのように、任天堂オフィシャルのゲーム雑誌Nintendo Powerの定期購読者全員にDW1のソフトを無料でプレゼントという企画もあったそうです。さらに誌面内のマンガではファミコン心拳さながらDW1を紹介し、さらにゲーム内にもマンガのキャラが登場するというメディアミックス展開がなされていたそうです。容量が増えたことでグラフィック面もパワーアップ(キャラの4方向パターン・デモ追加・フィールドの水平線追加など)されました。
 やれることはやったDW1ですが、どうやらあまり成績は良くなかったようです。その後もドラゴンウォーリアーⅡ(1990)、ドラゴンウォーリアーⅢ(1992)、ドラゴンウォーリアーⅣ(1992)とファミコン版のシリーズは一通りリリースされました。そしてスーパーファミコンの時代へと移ります(日本では1990年末、北米は1991年夏)。しかし残念ながら、スーパーファミコンの時代ではドラゴンウォーリアーの続編は一切リリースされませんでした…。
 なぜドラゴンウォーリアーが北米で日本ほど受け入れられなかったのか? 憶測ではありますが、以下の点が考えられます。

ファミコンにおける3年のブランク

 ファミコンは1983年夏に発売され、初期のカセットはたったの24KByteしかありませんでした。ゲーム内容も非常にシンプルで、画面数も少ないものがほとんどでした。しかしスーパーマリオのヒット後は、カセットにカスタムチップを積みさらなる大容量化進みました。
 この進化速度は凄まじく、3年の違いで別ハードと思えるほどゲームに変化をもたらしました。特にドラクエ1(1986)とその後の3年間ではロムの容量も加速度的に大きくなりました。ドラクエ1は64KByteでしたが、同年末のがんばれゴエモンでは2Mbit=256KByteまで達しており、1989年ではすでに256KByteのゲームは当たり前となっていました。タイトルとしては、ダウンタウン熱血物語、悪魔城伝説、バットマンなどゲームとしても円熟したレベルのものがリリースされていました。
 北米でも、ドラゴンウォーリアー発売時にはゼルダの伝説、リンクの冒険、メトロイド、悪魔城ドラキュラ1,2はリリース後ですし、同年にはドラスレファミリー、ファザナドゥ、ヒットラーの野望、忍者龍剣伝といったドラクエ後のRPGブームの影響を受けたであろうハイクオリティなアクションやアクションRPGが販売されていました。つまりコマンド式RPGを浸透させる前に、RPG的要素を含んだ複雑な要素を持つアクションやアクションRPGが一般化しており、アメリカの子供たちにとって純RPGを学ぶ機会となるはずだったDW1は、すでに多くの新規性が薄れてしまっていたのかもしれません(憶測含む)。
 忍者龍剣伝にドラクエの影響があったかどうかは意見も分かれるところかと思います。ドラクエによって長時間プレイするゲームや、奥深いストーリーといった要素が子供たちにも受け入れられる土壌が作られ、それが忍者龍剣伝のようなストーリー性の強いアクションゲームに繋がったとも考えられそうです。

鳥山明のキャラクターデザイン

 今でこそドラゴンボールは海外でも人気ですが、ドラゴンボールが人気になったのはドラゴンウォーリアー1よりもずっと後で、1990年代後半のようです。そのため、当時は鳥山明先生のキャラデザは特別良いものとして受け止められていなかったのかもしれません。個人的にはしっかりとした四肢や機械をはじめとした立体物の表現は説得力があるので十分受けると思うのですが…。ここは感性の問題なのでわからないですね…。じゃあFF1,2(国内では3)のモンスターはアメリカで大きく受けたのか? と言われると、そうでもない印象ですので、なんとも腑に落ちない話ではあります。個人的には絵の問題よりも、別の問題だったのかな? と感じています。

日本人はRPGを上手に学び、独自に進化させた

 ここまでの話をまとめると、私たち日本人は堀井雄二氏により、上手にRPGの面白さを教えてもらえた幸運な人種と呼べる気がします。少なくとも80年代の世界のRPGはまだまだ難解で、女子供が近寄れるような存在ではなかったように感じます。日本のRPGだけが、大人も子供も、おねーさんも、楽しめるジャンルとして進化しました。
 敷居の高いジャンルや遊びは世の中にたくさんあります。そうしたものを遊びやすくするのはとても難しく、とっかかりとなる何かが必要です。例えばカードゲームなら遊戯王やポケモンカードなどのおかげで今ではポピュラーな遊びとなっていますが、80年代では子供が近づけるようなものではなく、非常にマニアックな世界でした(それゆえに引かれるマニアな子供いたようですが…)。他にもローグと不思議のダンジョン(もしくはDiablo)や、FPSとスプラトゥーンなども似たような関係かもしれません。
 80年代のRPGの場合は、言葉や文化的な壁もあり、ドラクエが世界中の人々にとってRPGの入門となることは難しかったのかもしれません。私たち日本人は、この素晴らしい作品のおかげでRPGのイロハを学び、その後のJRPGの進化を楽しむことができたのは幸運だったのでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?