完成させるということの意味
別に他の作品が素晴らしい出来だったというつもりはさらさらない。いまのところ、どこからも出版のお声がかからないところを見ると、出来はお世辞にも良かったとは言えないのだろう。
しかし、今回の作品はカーラにとって書きにくかった。前回の完成報告の最後で次はミステリィに挑戦と書いた。自分なりのミステリィ――広義の意味でのミステリィにはなっていたと思う。本格ミステリィではないし、普通の小説に近い内容だったから(中途半端な作品ともいえる)、書くこと自体さほど難しくはなかった。
それはそれでいいのだけれど、今回はとにかく書きにくかった。それは作品内容がというよりも、カーラの身辺多忙に原因がある。むやみと忙しく、途中で執筆中断があった。これが効いた。
執筆中断の理由はふたつあって、ひとつは職場が変わったことだった。もうひとつは引っ越しだ。
職場が変わったといっても転職ではない。同じ法人内の別の事業所に異動になったのである。以前ちらっと触れたが、いろいろと問題のある事業所がついに立ちいかなくなり、そちらに移ってくれと言われたのである。よほどの事情がなければ、断ることはできない。だが一応、
「わたしが行ってどうなるものでもないと思いますが……」
と、カーラは辞令を持ってきた部長に言った。普段は相談や契約に使っている小部屋でのことだ。
「向こうの職員の希望なんだ」
と、部長はにわかに信じられないことを言った。
「いや、本当なんだ。前の所長が……まあいろいろと問題もあったから、職員に今後のことを訊いた。その中には次の所長のこともあった。必ずしも希望に添えるという約束はできないと前置きをして、どんな人がいいかと訊ねた。そうしたらみんな君の名前を言った」
嘘だと思った。そんなわけがない。要するに部長は、わたしを異動させたいために、適当なことを言っている。カーラはそう思ったが、嘘でしょうとはさすがに言わなかった。その代わりに、
「所長なんてできませんよ――本気でおっしゃっているのなら、わたし考えます」
「考えるってなにを……」
「いろんなことです」
「いろんなことって……とにかくあわてるな。これ以上話をややこしくしないでくれ。所長にはしない。君の立場は、計画作成係長――副所長だな。知っての通り、認知症対応型共同生活介護はユニットごとに最低1名の計画作成担当者が必要で、そのうち1名は認知症介護実践者研修を受けた介護支援専門員の有資格者だ――君、そうだろう」
確かにその通りだった。とにかくそんなわけで、カーラは認知症対応型共同生活介護――つまり認知症高齢者を対象としたグループホームに異動することになった。最初は別に所長がいるわけだからと、軽い気持ちで考えていたが、行ってみて騙されたと思った。F次長が所長ということになっているが、彼はほとんど事業所に顔を出さない。そんなこんなでカーラは、日常業務においては、事実上の所長のような立場になってしまった。
それまでカーラが勤務していたのは、居宅介護支援事業所だった。今度はグループホーム。小規模の入所施設だ。ずいぶん勝手が違ってくる。とにかく、そんなこんなで小説を書いているどころではなかった。
もうひとつは引っ越しである。よんどころない事情があってカーラは引っ越すことになった。別に色っぽい話ではない。カーラは今でも一人暮らしだ。
閑話休題。
そんなわけで、身辺が何かと落ち着かず、おちおち小説を書いていられなかったということである。書きたいが、書いていられる状況ではなかった。
カーラが今回の作品を書きはじめたのは7月だった。予定としては10月末の完成を目指していたのだが、結局、送ることができたのは12月1日だった。一月も遅れてしまったことになる。
職業作家の方については知り合いもいないので知らないのだが、少なくともカーラの場合、小説は一定のリズムで書き続けることが重要だった。原稿用紙で――というのは、カーラの場合20×20を1ページにエディタの画面を設定している――500枚近い枚数を書くというのは、持続する意思というよりも、一定の速度が必要だった。もちろんカーラの場合である。
自転車と一緒である。止まれば倒れる。止まっても、両足を地面につければ倒れることはない。だが、次に走り出すとき、それまでよりも力がいるし、なんとなくそれまでとは異なる気持ちになる。走っていることに変わりはないだろうと言われればそれまでだが、人間というのは意外と繊細にできていて、ちょっとしたことで見える風景が変わってくる。
今回の作品がまさにそれで、途中で職場が変わり、引っ越しに関わるあれやこれや、そういったものが重なって、まったくパソコンに向かえない日々が何日かあった。そうなるともういけない。全く書かない日を挟むと、急に書いているものが面白くなくなってくる。本当にこれでいいのか――と懐疑の影がさすのである。カーラの場合、一行でも二行でも、とにかく書き続けることが大切だった。
しかし、ここがカーラの言いたいことなのだが、書いているものが面白くなく感じても、それはまったく書けなくなるということとは、まるで違うということだ。
過去に長編を書いていて頓挫したときは、どうしても続きを書くことができなくなった。今回は書くことができなくなったのではない。書いてはいるが、書いているものが、面白く思えなくなったのである。
それでも先へと筆を先へと進めることはできた。キーボードで打ち出す文字は、作品内の時間を、過去から未来へと流れていくのである。書くことはできるし、作品が最後の一行にたどり着くであろうことも、カーラにはわかっていた。ただできたところで、その作品は駄作以下のものだろうという予感めいたものがあった。
ではあるが、とにかく書くことはできるのである。そこでカーラははたと気づいた。過去頓挫したのは書いている小説が面白くないからではないと。そもそも書くことがそこで尽きてしまったから書けなくなった。この話は面白くないとかなんとか考えたのは、ようするに書くことがないという事実から目を背けるための言い訳だったのではないか。
『書くことがなければ小説は書けない』
と、いう言葉をカーラは座右の銘にしようかと真剣に考えている。そこに尽きる。紡ぎ出すストーリーが、てんでおもしろくなくて、筆が進まなくなった――と、いうのは勘違いだ。書けなくなるのは、てんで面白くないからではない。てんで面白くないストーリーを、カーラはいつも書いている。だからどこの賞にも引っかからないのである。
問題はそんなところにはない。少なくともカーラの抱えていた執筆に関する問題は、そんなところにはなかったのである。書くことが何もないにも関わらず書こうとして、書くことが尽きて、書くことがなくなったという、書くということの本質にかかわる問題がそこにあった。
今回、書くことはあった。最初になにを書くのか、ストーリー、人物ともに決まっていた。すると、
「なんか面白くない……」
と、思いながらも、最後に向かって書いていくことはできる、という大発見をカーラはした。溜息をつきながらも、こうなって、ああなってとわかっていると、書くことはできる。
とはいえ面白くないと感じる気持ちは変えようもない。途中で中断がはいったからか、それともそもそも面白くない話だったのか、そのあたりはわからないが、本当にこれでいいのかなと思いつつも、半ば惰性で書き続けた。
面白いもので、しばらく書いていると、これはこれでいいかという気持ちにもなってきた。そんなわけでカーラは書き続け、四百字詰め原稿用紙で530枚くらいを書きあげることができた。
読み返してみて、不思議なこともあるものだとカーラは思った。惰性で書き続けたわりには、ストーリーは一応破綻もなく流れていた。必要のない(とカーラが考えた)文章を削れば、主人公の行動に矛盾はなくなる。冒頭の場面に手を加えれば、物語の中で起きる不可解な出来事が、不可解な出来事のまま放置されることもなくなる。さらに不可解な出来事は、主人公が存在する意味と密接に関係しているということもわかってきた。してみると、不可解な出来事は、すべて主人公を縛るためものでも、その縛りがなくなったとき、本当の主人公が姿を現すというのは悪くない……
こんなふうに書いてみても、作品そのものの紹介は省いているので、何がどうなっているのかわからないと思うが、とにかくそういうことである。言いたいことは、箸にも棒にかからないと思えるような作品であっても、とにかく完成させて推敲すれば、まあ何とかなるということだ。推敲するためには、書き上げることは必須である。
とにかく、〈書け〉、〈書き上げろ〉と、漫画や小説の創作に関する書籍には書かれている。その理由がわかった気がする。乗りに乗ってすいすいと書けるときは、問題はない。問題なのは書くことに迷いや、さらに突き詰めると、ある種の苦痛が伴うときなのだろう。途中で放り出すのは、論外である――のだが、この点小松左京という巨才は、書きかけだけで投げ出した作品が結構あると何かのインタビューで答えていた。これは小松左京という大天才だから許されることなのかもしれない。
とにかく、書くことがあっても、なおかつ書くことが苦痛になる場合が――天才の場合はないのかもしれないが――カーラ程度の才能ならあることなのだ。
しかし、どんな場合でも結論は常にひとつだ。書けるなら書け。それが今回の作品を通してカーラが学んだことである。読み返してみて、どうしても気に入らなければ、そこで捨てればいい。いや、カーラの場合は、わざわざ自分が捨てなくても、応募すれば、下読みの方がさっさと捨ててくれるだろう。これはボツにするべき作品かどうかなど、まだ考えられるレベルにカーラは達していない。
今回送った作品も、まあだめだろうとカーラは考えていた。それは韜晦でも謙遜でも、先回りして傷の痛みを和らげようとしている姑息な企みでもない。
賞は獲れるなら獲れるに越したことはない。だが、いまのところそれは絶対的な目標ではなくなっている。賞よりも書いていることが楽しいということが、今のところ先にある。今回の、出来がいいとはいえない作品にしても、なかばいやいや書いたが、読み直して、書き直しているうちになんとなく、こういうのもありかなという気持ちになってきた。それはそれで楽しかったのだ。
もし、どうしても賞を獲りたい、なんとしても獲らなければと思うのなら、小説教室に通うか何かするだろう。いまはとりあえず書いていることが楽しい。書けるようになって楽しいという心境だ。
今回送った作品が、どういった評価を受けるのか――あまり期待もできないだろうが、結果の如何に関わらず、次の作品を書きはじめているカーラだった。