喜多嶋先生になりたい。~「かがみの孤城」を読んで~

 私には一つの夢がある。それは、「言葉を通して誰かの力になりたい」という夢だ。

 ずっと、温度のある言葉を放つ人に憧れている。そっと寄り添って、包み込んで、相手にとってのお守りみたいな存在となるような言葉を紡ぐ人。私は今までに、本当に少数ではあるが、そんな言葉を紡ぐ人に出逢ったことがある。その人たちからもらった言葉は私の中で、鮮度も彩度も保ったまま今もなお生き続けている。

 そして私は、そんな憧れの人を「かがみの孤城」の中でも見つけた。

 喜多嶋先生だ。

 喜多嶋先生は、すごい。こころが苦しんでいること、闘っていることを見抜き、こう言った。

「闘わなくても、いいよ」

 この言葉はこころの心の、一番柔らかいところにそっと触れた。こころが今まで経験してきた痛みや苦しみを理解し、肯定し、そこから連れ出してくれる光のような言葉だ。こころがこの一言で大きな安心感に包まれていく姿を見て、私は猛烈に喜多嶋先生に焦がれた。この人になりたいと強く思った。

 もう一つ、喜多嶋先生の誠実さをありありと見せつけられたような言葉がある。それは、進路についての話し合いの場で、こころが真田さんからの手紙をめぐり取り乱しているシーンでの一言だ。真田さんには真田さんの苦しさがあると告げた後、喜多嶋先生はこう言った。

「でも、それはこころちゃんが今理解してあげなくてもいいことだよ。真田さんの苦しさは真田さんが周りと解決するべきで、こころちゃんが、あの子に何かしてあげなくてはいけないなんてことは絶対にない」

 この言葉を見たときの衝撃を未だに忘れられない。この言葉は、喜多嶋先生のポリシー、あるいは生き方までもを映しているような気がした。彼女は、ただ、目の前の人と一心に向き合い手を差し伸べる。そうすることが仕事だから、じゃない。同情しているから、でもない。こころの痛みを理解できるからだ。だけど、それと同様に、喜多嶋先生は真田さんの痛みだって理解できるのだ。しかし彼女はそのことを隠さない。こころにちゃんと伝えた。その上でこころに寄り添い、こころのすべきことを明確に示すのだ。

 喜多嶋先生はなんて優しい人なのだろう、と思った。真っ正面から相手と向き合い、身も心も捧げるほどのエネルギーを費やさないと、こんな風に誰かに寄り添うことはできない。

 そして、気づいた。喜多嶋先生が苦しんでいる人にとって救い主になれるのは、彼女自身が大きな苦しみを享受した経験があるからだ。そして、その苦しみの中から救い出してくれた大人がいたからだ。

 そう考えると、伊田先生にはそのような経験がなかったのかもしれない。あるいは、いつの日か感じた苦しみを、忘れることができたのかもしれない。彼は彼なりに、こころに寄り添おうとしているように見えた。しかし、彼自身が痛みを感じたことがなければ、こころの葛藤を理解することはきっと不可能に近いのだろう。

 

 そこで、自分の夢について、もう一度考えてみた。どうしたら、言葉で誰かの力になれる?

 日々の中で感じた痛みを忘れない。そして、苦しいときに手を差し伸べてくれた人、言葉をずっと大切にし続ける。これが一番の方法なのではないだろうか。

 苦しさの大きさは人それぞれで、他人の苦しさを全部そのまま感じることはできない。でも、苦しみから立ち上がった経験や助けてくれた人の存在は、一生自分にとっての味方だ。そして、それは誰かにとっての味方にもなり得る。苦しんだ経験があるから、人の痛みが理解できる。救われた経験があるから、助けたいと思う、どうしたら楽にしてあげられるのかがわかる。


 夢を叶えるために、まずは、自分の感情の動きに敏感になってみようと思う。色々な感情を知りたい。色々な経験をしたい。重ねてきた時間はきっと、共感しあえる人の幅を広げる。

 喜多嶋先生は、こころやその他の登場人物を救っただけでなく、読者である私にも影響を与えた。夢へのヒントをくれた。ああ、なんて素敵な人なのだろう。私はこれからもずっと、喜多嶋先生に憧れ続ける。



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