見出し画像

飲んだ酒は吐かない・その3「DV・モラルハラスメント被害者とは」



私を含め、DVやモラルハラスメント被害者となった人には、性格やタイプに共通点が見られますが、最初に強調しておきたいのは、それらの特性や性格が決して「悪い」ものではない、ということです。

加害者からの被害を受けやすい側面があったとしても、それらは、他の人との関係においては長所になりうるものでもあり、それぞれが持つ大事なその人の一部です。

ただ、自分でその特性を自覚しておくことや、自分を傷つけずに他者とより良く向き合うため、生きやすくなるために工夫が必要な場合があるので、その点について私自身が自分を振り返ったり、多くの当事者との交流で気づいた、被害者の特徴について分かち合いたいと思います。


こうあるべき、という考え方

この考え方が強ければ強いほど「それ以外の在り方は認められない」というプレッシャーは強くなります。
子どもの頃の親の言動やしつけからくる、自分はこうあるべきという強い思い込み、こうしなければ愛されないという感覚、親しい人やマスメディアによって植え付けられた、女性とはこうあるべき、というイメージなども強く作用することがあります。

高い理想を描くことは、自分を向上させるために良く作用することもありますが、余りに強い理想への思い込みは、それに対する罪悪感を利用することで容易に被害者をコントロールできるので、加害者にとって都合のいい材料になり得ます。

私はまさに、自分に「こうあるべき」という理想を課して生きてきましたが、それは別居に向かって動くことでどんどん壊れていきました。

最終的に自分では「以前の自分の理想とはかけ離れた、何もない状態の自分になった」と感じましたが、意外にもとても楽になったし、その状態の自分の周りに残ったのは、自分をそのままで認めてくれている、良い友人・理解者ばかりでした。

私自身が自分の理想に合わない部分を自分で否定し無理をしていた間は、周りの期待に応え認められることだけを重要に思っていたので、期待に応える私を利用する人間ばかりを引き寄せてしまっていたと気づきました。

初めから、自分をそのまま素直に出して他者と関わっていれば、良い人間関係だけが周りにあったのだから、ずいぶん無駄な遠回りをしたと思いましたが、それでも気づけて良かったと思いますし、これからは無理をしない関係だけを大切にしていこうと思っています。


自己肯定感の低さ

子どもの頃、私は両親に虐待されたということはありませんが、褒められたとか抱きしめられたという記憶がなく、特に母から気まぐれに干渉され、また放任されることで、不安定な精神状態になりがちでした。

何かしなければ認められない、できなければ否定されて居場所がなくなる、という感覚はごく幼い頃から常に持っていて『そのままの自分でいると、人には認めてもらえない』と、自分という存在そのものを肯定できないまま大人になりました。

自己肯定感の低い人は、私のように「何かしなければ」「相手の役に立たなければ」という思いを常に持っていて、特にそれは親しい相手・親しくなりたい重要な相手に対して過剰に行動として出てきます。

「生まれて初めて接する身近な存在=親」にありのまま受け入れられ、自己を肯定するということを子どものころから自然にできていた人と異なり、自分の中にその肯定感がないので、恋人や夫など親しい他者に認められることにより、それを埋めようとするのです。
この「認められたい」という承認欲求がいつか、認められなければならない、認められるためには何でも従う、という偏った行動や考えになっていき、加害タイプの人に容易にコントロールされることになります。


共感性が高い

他者の感情にひとよりも共感できることや、いわゆる空気を読めることは、相手の求めているものや感情に配慮して適切な行動をとれるという点で長所と言えます。

しかし、先の加害者の特徴の項で書いたように、この共感力は加害者に対して発揮すると、より一層相手との境界線が曖昧になり、相手からのコントロールを強めてしまうことになります。

人の感情を自分のもののように感じてしまうことが、加害者自身の問題など、引き受けるべきではないことも引き受けてしまうことになり、相手からの依存度も高めることになります。

人よりも共感性があることは、例えば接客・サービス業などにおいて高い能力を発揮できる才能でもあるので、誰に対しどの場面でそれを用いるかを、自分で意識していく必要があると思います。


自分を責めやすく、他人に優しい

何か問題が起こると、被害者になるタイプの人はまず自分に責任があると考え、自分には責任の無いこと、どうにもならないこと、もっと言えば介入すべきではないことも、責任を感じ引き受けてしまう傾向があります。

対して加害者は、フラストレーションを自分で処理できず、他者に向ける傾向にあります。
この加害者にとって、自分の責任をすべて引き受けてくれる被害者は便利な存在です。自分は優れた人間としての外見を保っていればよく、それ以外の部分に関しては被害者に負わせることで、失敗に悩んだりその責任を負う必要は無いわけです。

このように、被害者が持つ自分を責める傾向は、他責傾向のある人にはどこまでも都合よく使われてしまうので、自分と他者との責任を意識的に分けて考えることが大事です。

自責傾向の人にとっては、それは人として冷たいことのように感じられますが、他者の領域に不用意に介入しないことは、結果的にその人自身のためになる(成長の機会になったり、困難を乗り越えることで自信を持てるなど)ことなので、自分が引き受けるべきことなのか冷静に見極めましょう。

何でも自分のせいにしてしまわないことは、自分を大切にすることにもつながります。


「共依存」という考え方について


人間関係では少なからずお互いに頼ったり依存する面はありますが、「自分」という核が無いまま、相手に存在の根拠を委ねている場合、相手の存在を手放すことは、自分自身が無くなるのと同じことになってしまうので、自分を保つためのツールとして相手を手放せない状態になっています。
お互いがこのような関係は「共依存」といえます。

ただ、多くのアディクション(嗜癖)の説明に用いられる「共依存」という概念は、逃げ出さない被害者にも非があるように伝わってしまい二次被害を招くので、DVに関する研究・対策が進んでいるアメリカなどでは、DVについて「共依存」という考え方は使用されなくなっているそうです。

私自身も、出会ってから結婚当初までの数年間は(元)夫に認められることばかり考えていましたが、以降はあまり関わりたくないと感じ、精神的にもそれ以外でも依存しているとは思えなかったので、日本でDVについて語られるときに持ち出される「共依存」の概念については疑問に思うことがありました。

関係の初めに、自分の存在の根拠を「相手に認められること」に置くような共依存傾向があったとしても、被害者がDVから逃げ出せない理由は、相手との関係性への依存によるのではなく、恐怖によるコントロールの影響によるものだと私は思います。


まとめ

私自身が自覚した特徴や私が知り合った同じDV・モラハラ被害者に多い性格の特徴から、いくつかの例を挙げてみました。
必ずしもこうした性格や特徴の人が被害に遭う、とは限らないのですが、自分を知っておくことで、陥りやすい思い込みや罪悪感を避けることができ、コントロールされにくくなるので、参考にしていただければと思います。

また、加害者はよく「お前が**だから」とか「自分は怒りたくないのにお前が怒らせるから」などと被害者に責任を転嫁しますが、どんな性質、性格であろうとも、暴力や暴言に関する責任は被害者にはありません。

何か問題を解決するとき、暴力以外にも方法は必ずあります。そんな中でほかの方法を選ばずに暴力を選んだのは加害者であり、そのことについて責任を負うべきなのも加害者です。

被害者が自分を責めたり、自己嫌悪に陥る必要はなく、逆にそう思ってしまう時こそ、自分を労り優しくしてあげることが必要です。


次回は、離婚や別居に至るまでの共存中のセルフケアについてお話ししたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?