外された枷

「野宮、時子、さん」

 彼女の名前を復唱して、馴染んだ感覚が私の身体に巡っていく。
 柔和な印象に似合う名前だと、率直に思った。

「いい、お名前ですね」
「あら。そんなこといってくれると嬉しいわ。私もとっても気に入っているから」

 そう言って笑う彼女に、釣られて私も強張っていた頬が少しだけ緩む。野宮さんが放つオーラはなんというか癒されるというか、さっきまで張り巡らされていた緊張の糸を一切の違和感なく解いてしまう不思議な力があると思った。
 もしかしてこういうお店の女将さんは、みんなそんな力を持っているのだろうか。

「柳さんこそ、素敵なお名前ね」

 私の名前を聞いて、ふわりと微笑んだ野宮さんの表情がとても印象に残った。
 自分の名前は嫌いでないけれど、会社で言われているあだ名をふと思い出して消沈する。『初心者マークのわかば』なんて言われ方をして上司に怒られるし、同僚たちからはからかわれたりだってする。やろうとすればするほど空回る自分を思い出し、ここに来た時の気持ちを思い出してしまう。
 せっかく野宮さんが気を紛らわせようとしてくれていたのに、私は。

「――お待たせしました、梅酒のソーダ割です」

 カラン。
 気まずそうな空気が流れそうになった私たちの間を一閃するような氷のこすれる音。グラスに注がれた梅色の液体はパチパチと小さくはじける音を立てながら私の元へと運ばれてくる。見たことのなかった私はその綺麗なグラスに入っているそれに目を奪われてしまう。

「ふふっ、そんなにじっと見なくても誰も取りませんから」
「うっ……」

 じっと見ていたことを指摘されて、ばつが悪くなる。だけどそれはどこかからかっているようで、楽し気な表情の彼女には会社で味わうような感覚とは違う、心の中をくすぐるような何かがあった。

「いただき、ます」

 とはいえこれは自分の苦手なお酒、アルコールだ。油断したらすぐにでも彼女に、お店に迷惑をかけてしまうと気を取り直して目の前のグラスを手に取った。
 カラン、コロン。パチパチ、パチ。
 グラスが揺れるたびに色んな音が静かな店内に響く。
 意を決してそれを一口。
――ふわりと香るのは、ほんのり甘い梅の味。次いでソーダの弾ける刺激がアルコールを心地よく薄めてくれる。

「……美味しい」

 グラスから視線をあげ、野宮さんの方を見やる。きっとその時の私の顔はとてもキラキラとしていたことだろう。
 初めて、お酒を美味しいと思った。今まで飲んできたものは本当に何だったのかと疑いたくなるほどのそれは、私にとって知らなかった世界を教えてくれたのだ。それほどまでの衝撃を前に、顔にすぐ出る私は案の定わかりやすい顔をしていたらしい。嬉しそうに笑う野宮さんと目が合った。

「美味しそうに飲んでくれて嬉しいです。それ、うちで漬けてる梅酒なんですよ」
「えっ!」

 衝撃的な言葉を前に、私はぽかんと口を開けてしまう。
 こんなおいしいものを自分で、作っているのか。確かに料理屋なのだから色んなものを作っているんだと思うけれど、こんなところまで手が込んでいるなんてと思いながら再びグラスの中の梅酒に視線を戻す。
 パチパチと弾けるたくさんの気泡、よく見れば溶けた氷と交わるように梅酒がゆらゆらと揺れている。

「すごい……」
「そう言ってもらえると照れちゃうわ、ふふっ」

 こんなすごい人を前にしている私は、どうだ。それをふと考えてしまったのが、運の尽きだった。
 確かに社会人一年目の新人だけれど、それは私だけじゃない。同期たちは徐々に成績を上げたり実を結び始めている中、私は一人、沈んだままの状態。小さなミスだっていまだに続くし、それが今日は大きくなって、連休明けなのにこんな時間になるまで仕事に追い掛け回された。
 こんな風に、野宮さんのような素敵な人と一緒にいるのが、そもそも場違いなのではないか。

「……」
「柳さん?」

 沈んだ私の様子から何かを感じ取ったのか、野宮さんの声色が不安げなものになる。それに気が付いて彼女に気を遣わせてしまった、とさらに落ち込んでしまう。

「――何か、あったんでしょう?」

 私でよければ、話を聞かせてくれない?
 優しい声だった。刺々しかった私の心の棘をそっとかき分けてくる彼女の声は、小さな明かりをともすように温かくなって、その優しさが心に染み渡った時、不意に視界の端がゆらゆらと揺れ始めたのだ。
 ……あれ、泣いてる?

「思い詰めすぎても何もいいことはないですよ。たまには発散しないと」
「で、も……」
「ここは、そういうところですよ」

 それが、多分とどめだった。
 ぽたりと落ちた一粒の涙をきっかけに、次々と落ちていく涙と抑えきれない嗚咽。そんな私を黙って彼女は見守ってくれて、私の言葉をただゆっくりと、待ってくれていた。
 いつもだったら堪えられるはずなのに、どうしてだろう。
 彼女の力があったから? もしかして、お酒のせいかな。
 ぽたぽたと零れる涙を拭おうと目をこすっていると、そっと差し出されるのは温かな布巾。

「目、そんなに擦ったら跡がついちゃうわ」
「っ」
「ゆっくり、ゆっくりでいいから。私に良ければ、柳さんのこと教えてくれる?」

 どうしてこの人は、こんな風にしてくれるんだろう。
 何も知らない、今日初めてあった人なのに。お客さんだから、というだけでこんな風にしてくれるのが嬉しいようで不思議で、でもそれが嫌じゃない。不思議で温かな空気を纏う彼女の言葉に、言ってしまえと誰かが囁く。
 この人は、この人なら。

「……わたし、がんばって、るんです」
「うん」
「でも、うまく、いかなく、って……」
「うんうん」
「どうしたら、いいか、わかんな、く、って」

 たどたどしく、自分の言葉で考えていることを少しずつ訴えれば、小さく頷いて話を聞いてくれる野宮さん。それに釣られてどんどん言葉が出てくる不思議に驚きながら、だけどそれが今は心地よさまで感じている。
 思いを吐露する場所。もしかしたら私にとってここは、そういう場所なのかもしれない。


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