見出し画像

今年はイザヤ書を読んでみることにした

去年、1日3章で聖書を全部読むプランに参加して、一年で最後まで読み終えることができた。消化不良なところはもちろんたくさんあるけれど、なんとなく流れがつかめたような気がするのでやってみてよかったなと思った。

通読する前からずっと思っていた、黙示録の一部だけを引用して、実在の国や事象と結びつけて、戦争が起こるのは聖書に書いてある通りだから仕方がないというような結論にもっていく解説に対する違和感は、私の中では増々増してきた。

私は別に専門家でもないし、専門家になるつもりもないけれど、どうせ毎日読むなら、気づいたことをメモしながら自分なりの考えを書いてみようと思った。

まず、イザヤ書の第1章からとても気になった箇所があったので、これは引き続き読みかえしてみないわけにはいかないと思った。
その箇所というのは、

かつては忠信であった町、
どうして遊女となったのか。
昔は公平で満ち、
正義がそのうちに宿っていたのに、
今は人を殺す者ばかりとなってしまった。
(イザヤ1:21)

昔は何事もないように見えていたのに、いつのまにか金のためになんでもするようになり、気づいたら簡単に不正や殺人を犯す人ばかりで安心できなくなってしまった。


あなたの銀はかすとなり、
あなたの葡萄酒は水をまじえ、
あなたの司たちはそむいて、
盗人の仲間となり、
みな、まいないを好み、贈り物を追い求め、
みなしごを正しく守らず、
寡婦の訴えは彼らに届かない。
(イザヤ1:22)

商人は利益を増すために質を落とし、公正なはずの裁判も信用できない。
弱い人から置き去りにされていく世の中。
イザヤによると、こうなったらもう悪を裁くために破滅が来るしかない。

そうならないうちに、悔い改めて、正しく商売し、裁判を行うようになれば、破滅は免れられる、というメッセージ。

こういう話に同意できるのも、今の世の中がその通りになっているような気がするからで、ほんの数年前だったら、一体何のことを言ってるのか理解できなかったかもしれない。もし、その場に居たら、”イザヤさん、よくぞ言ってくれた”と拍手したくなるよね。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?