11月6日 商店街
孤独だなあ
そう感じたことがある人、どれくらいいるんだろう。
昔住んでいた街は、商店街がある街だった。
小さな頃、母の買い物について行くことでたくさんの人に可愛がってもらえた。少し母が別のところに行けば、わたしは商店街のお店の中にいれば安心して過ごせた。お店の人も母もわたしも馴染みだから。話し始めるとそれはもう長くて、子どもの頃は「今日はすきなテレビがあるからはやくはなし終わらないかなあ〜」とか「逆にもっと長く話してくれたらこのお店をぐるっと楽しめるなあ」なんて思ってた。小さなわたしには何もかもが大きかったから。
高校生になる前にわたしはその街を出た
生まれてからずっとそこで育ってたわたしは寂しかった。でも中学生になってから商店街の人と疎遠になってもいたから、そんなに寂しくないかもって思った。新しいところに行くって楽しみだなって思った。
移り住んだところはとっても都会だった
都会だ なんていってもビル街みたいな閉塞感もない。ただ、とても、とても孤独だった。
隣の家の人もその隣の家の人も誰か知らないし、駅前に出てもすぐお店が変わってしまい、そこで働く店員さんもバイトだからすぐに変わる。
資本主義とか情報化社会とかなんとか色々いうけれど、まさにそんな街なんだと思う
だからとても便利。どこに行くにも何を買うにも何をするにも。
でもその便利さを求めていけばいくほど、寂しくなってしまう自分がいた
大学生になって、久々に故郷を歩いた
知ってる店なんてほとんどなくて
もちろん自分を知っている人なんているわけなく
都会の街と変わらなくなっていた
わたしの故郷が都会になったというよりも、都会の文化が故郷に流入したのだろう。それだけ人口も住んでいる世代も変わったのだろう
商店街のめんどうさは、顔馴染みが多いこと。商店街が古き良き関係性を維持しているような地域は近隣住民の関係性もまた密だ。今ではこういった関係を「田舎では」なんて言ったりすることもあるとかないとか。
でも商店街の良さは、顔馴染みが多いことだ。顔馴染みが多ければ多いほど、安心感も増す。もちろん安全面からいっても。
商店街はどんどん廃れていくのだろう
特に目まぐるしく変わっている現代で、安くて便利なものを大量につくり大量消費大量生産が豊かさを象徴していくようになり、経済が社会の根幹を作り上げているような時代では、商店街のやり方は通用しないかもしれない。八百屋も肉屋も魚屋も、スーパーやコンビニに代わっていく。うまくいく店は繁盛しさもなくばすぐ潰れる。そしてその跡地には新しい店ができる。
(きっとこんな時代ももう終わりに差し掛かっているけれど…)
そんな中で、他者とどう付き合っていくのが良いのだろうか。様々な人との繋がりはどうやって生まれどうやって守られていくのだろうか。私たちは孤独から逃れられるのだろうか。
わたしはおもう
孤独からはきっと逃れられない。
でも、自分の孤独も他者の孤独も上手に抱きしめて、生きていくしかないんだと思う。孤独を感じないのは、そうやって抱きしめあってうまく付き合えたから。楽しくて仕方ないんだ。それでいい。
思いやり
この気持ちがあれば、きっと、もっと世界は良くなっていくのかもしれない。今までも今もこれからも大切な考え方。当たり前だった思いやりがいつか当たり前じゃなくなった時に、私たちは苦しくなる。でもきっとまた、思い出せるはず。思いやりを。人と人が社会を作っていくってそんな、妥協とも言える思いやりのおかげなんじゃないかなって。でも、思いやることってすごく難しい。難しさを自分なりに分かった上で、他者を思いやれるように、生きていきたい。
わたしへ。