11月8日 プライド

「プライド、ゼロじゃん。少しはプライド持ちなよ。プライドを持つことって悪くないんだよ。」

これは小学生の時に教えてもらっていた大学生の先生から言われた言葉。その先生の真意はわからないけれどすごくよく覚えている。

高校生の頃だろうか。これもまた、教わっていた先生に、「プライド全然ないね」と言われた。

なんの話だったのか全く覚えていない。でも両者とも勉強中だったことは間違いない。

なんとなく、小学生の頃のわたしはあの言葉を言われて逆に、プライドを持たない方がいいなと思ってしまった。なんかそっちの方がかっこいい、なんて。

高校生の時のわたしは、小学生の頃に言われた言葉をまた言われたというその事実だけに驚いてしまった。そうか、わたし結構プライドあるけどなあ…なんて思いながら。

今のわたしは、自分のプライドの高さが怖くなっている。

プライドってなんだろう

辞書には「誇り。自尊心。自負心」と書いてある。さらに「自尊心」を調べると「自分を優秀な者だと思う気持ち。尊大に構える心。/自分の品位を保とうとする心」と「自負心」を調べると、「自分の才能に自信や誇りをもつ心」と書いてある。

つまり、プライドは「自分が優秀であるor自分はすごい人だと思う心」と辞書的にいえば解釈できる。思うに、世の中で使われているプライドはもう少しやんわりとしていて、「自分すごい」これだけで充分プライドといえるような気がする。

小学生の頃の私に問えば、たぶん「いやいや〜そんなことないよ」なんて答えるのだろうか。

プライドは、もしかしたら自分が生きる意味または価値を自分なりに保証したものなのではないかと思う。

才能がある とか 優秀だ と自分を思うことは、それだけ自分は生きてていいんだというような価値判断に繋がるから。

だから、小学生のころの先生はわたしに「プライドを持つことは悪くない」と教えたのだと思う。

今のわたしは、小学生の頃と性格も気の持ち方も180度くらい変わってしまった気がする。

小学生の頃のわたしは、物怖じしないところがあった。失敗や心に残るトラウマもなくはないが、それでも健気にチャレンジしていた(させられていた)気がする。その結果成功したこともあり、チャレンジ悪くないなあなんて思ったに違いない。でも、自分の才能には正直何も自信がなく、才能がない自分の成功を申し訳なく思ったことすらある。わたしはその時の自分のことが昨日のことのように思い出せる。だって、本当に謝っていたから。

中高生になって、自分の周りの環境がどんどん変化した。仲の良い友人が学年とともに変わる中、自分も変わってしまった気がする。よくもわるくも。わたしはものすごく怯えるようになった。失敗は許されないなんて。

人には失敗はつきもので、結局そんな怯えの甲斐なく失敗に失敗を重ねていった。それが本当に失敗だったかは未来から見れば何もわからないけれど、当時のわたしにとっては失敗だった。

結局そうやって、傷つくようになると、プライドが宿り始める。

わたしはできる、ほんとうはできる みたいなね。

今はその感情がものすごく大きくなってしまったのではないか

「少し」のプライドは、わたしを励まし挑戦させてくれるけれど「大きな」プライドは全く当てにならないばかりかそれが故にわたしはどんどん殻に閉じこもってしまう。

気づいたらもっともっと失敗している

プライドは、生きる意味や価値を自分なりに保証するものだと自分なりに定義したけれど、いまのわたしの場合に限って少し付け加えてみる

今のわたしの「プライド」は、生きる意味や価値を与えるというよりも、生きる意味や価値がないことに蓋をするために作られた理想像・虚像。現実を否定されないために作られた鎧。

そしてこの鎧になったプライドはわたしを失敗から守り、わたしを傷つけないようにする。

こうして傷つくことから目を背ける一方で、その生き方がなんとなくダサいんじゃないか なんで思ってしまう。後悔先に立たずと言われるけれど、後悔の念が常に事後に湧いてくる。あーやってしまったな なんて。でももう変えられないじゃん過去はなんて思いながら自分で自分のガードを増やしていく。鎧はもう何重にも重ねられ硬く堅固になっている。

こんな腫れもののような、いつか鋭い刃物で切られればすぐに割れてしまうような脆い鎧のプライドをもつ、自分がとてもとてもこわい

刃物で切られればおわりだから。守りきれないから。

わたしはこのプライドをどうにかしようと思って、本を読み始めた。

世の中にあるいろいろな生き方が詰まった本やドラマの数々は、少しずつわたしのかたくなりすぎたプライドを溶かしてくれないかなあなんて思いながら。

追記

わたしの周りにもいわゆる「プライドの高い子」はいる。そして、わたしはその子たちを尊敬している。

彼女達・彼らのプライドは、根拠がある。根拠があるという自信に満ち溢れているから。

逆にわたしはプライドがない子が悪いとも思わない。そういう人たちも大好きだ。

努力しないことが悪いとも思わない。

自分なりに、その生き方で良いと思っているならば否定することはないと思っている。世間的には、努力が大事かもしれない。努力しない人は愚かかもしれない。でも努力って何ではかるのだろう。テストの点数?成績?履歴? 測り方も定まらない努力 を大事だと言い切り、生き方を縛ることはできないと思っている。

いや、正しいのは努力していない人はいないから。かもしれない生きるってそれだけパワーがいるから。 だから、そんな測り方もしらないもので、努力してないなど決めつける権利なんてどこにもない。

プライドなんてあってもなくても良い。でもプライドに縛られるのは、ちょっとつかれる




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?