差別偏見多様性

多様性が求められる現代において差別や偏見をなくしましょうと言う声も多くなっている。
私もだいたいはそう思うし、差別をしたり偏見を持ったりはあまりしないタイプだと自分では思ってる。
LGBTQ(あげたら長いので端折るが)、身体精神知的その他障害に分類されるもの、自分とは考え方が違う人、ある程度は理解できる方だと思う。

そう、ある程度は。
逆に言えばある程度までしか理解ができない。
例えば性別に違和感を持ってる人がいたとする。その人が個人的に異性のファッション(この書き方がいいか悪いかはさておいて)を楽しんでいたり、長年悩んでて性転換して、その人らしく生きていたとして、そこに偏見はない。
でも例えばその人が私に好意を寄せてきたとして私の好みでは全くなくて、しつこいくらいに迫られてきたら申し訳ないけれどきっと嫌だと思ってしまう。その人にもし暴言をあびせられたら、もしかしたら今後性別に違和感がある人を多かれ少なかれ嫌だと思ってしまうかもしれないし避けてしまうと思う。
そうなったらこれは差別になるの?

ほかの例で言えばどこかで知り合った人が知的や精神身体等に障害がある人でも、私と波長があったりするのであれば全然仲良くできるし、実際そう言う人と仲良くさせてもらってたりする。
その人が困ってる事でわたしにできることがもしあるなら可能な範囲で力にならせて欲しいと思う。
でももし仮に最重度で全く言葉が喋れなくてモヤモヤした感情をぶつける先がないから、それを他人に暴力という形でぶつけてしまう人だとしたら?(本人もきっとそうしたい訳じゃないけど)
私はうろたえずにいられるだろうか?
1ミリも嫌だと思わないだろうか。

自信を持って「はい」と言えない自分がいる。
他害のないタイプだとしてもきっと全く言葉が通じなくて、その人と24時間365日居なきゃいけないとなった時私は耐えられるか分からない。



そういうことを考えた時、自信を持って理解があると言えない。

少し話は変わるが、3月に愛玩動物飼養管理士の資格を取得した。その教材の中でアニマルライツ(動物権理論)とアニマルウェルフェア(動物福祉論)の両者の考えの均衡点をバランシングポイントと呼ぶということが書かれてあった。

動物の肉を食べたくは無いがペットを飼う人、動物の肉を食べるが飼育をするのは虐待だと思う人、その他色んな中間的な考えのこと。

話を戻すと、差別や偏見について自分の意見を考えた時、私は0でも100でも無い所にいるからある意味これもバランシングポイントなのかなってそう思った。
きっとこういう人多いと思う。
お互いがお互いを理解はする。
するけれどそれぞれ考え方が違う、あなたはそういう人なのね。でも私はこういう人。お互い違ってお互いいいね。
そういうふうになって欲しい。でもやっぱり極端な例を考えると嫌だと思ってしまう部分も少なからずある。そういう意味では偏見や差別って完全にはなくならないのかな。

もしかしたら100%関わりたくない。本当に嫌だ、そう思う人も中にはいるかもしれない。全然居てもいいと思う。でもだけどその対象となる相手を攻撃するのだけは違うと思うし、逆にこの人に理解できないなんてありえない!性格悪い!って批判するのも違うと思うんだよね。理解できない人にだって考えの自由はあるわけよ。多様性を求めるならこの人への理解も深めないといけないよね。

多様性ってなんだろう?差別偏見ってなんだろう?みんなはどう考える?


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