経済格差の根底に流れるものを「3つの働き方」から見る
先月の産業カウンセラーの会報誌に小熊英二さんのインタビュー記事が組まれていました。その中で、コロナが日本社会に与える影響について日本社会の働き方の構造から語られていました。
自分が平成史を再考したいと考えていた時にこの記事を読んでなるほど、と思った部分があります。そこを説明するために、小熊さんの特集を自分なりに要約してみたいと思います。
そこでは小熊さんが『日本社会のしくみ』で示した、日本の働き方モデルを「大企業型」「地元型」「残余型」の3類型を用いていました。
大企業型:賃金が年齢とともに上がっていき、社内でキャリアを築いていく形で職業生活を終える人たち。大学を出て大企業の正社員や官僚になった人たちがこれにあたる。推計では就業者の26%。
地元型:農林水産業や自営業、地方公務員や建設業など地域に根ざして働いている人たち。就業者の36%。
残余型:大企業型のように長期雇用を保証されているわけでもなく、地元型のように地域に足場を構えていない人たち。就業者の38%。
そして、この3つの類型の値を総務省の労働力調査をもとに労働者人口の推移を見ています。大企業型を正規雇用者数、地元型を自営業主・家庭労働者、残余型を非正規雇用と見立てて、その人口の推移から世の中で何が起こったのか見ています。正規雇用は1984年から2018年までほぼ横ばいで、比率も変わっていませんでした。自営業主・家庭労働者が減少傾向にあり、反対に非正規雇用が増加していました。
この変化について小熊さんは、兼業で成り立っていた「地元型」の兼業農家や自営業者が産業構造の変化で自営業の基盤を失い、「残余型」へ移行したと考えています。地元型の多くは、農業をしながら兼業で地元の建設の仕事や工場勤務を兼業したり、農繁期には近所の人と労働力を助け合ったり、食料もおすそ分けをし合ったりして収入の少なさを相互扶助によって補っていました。80年代から、こうした人とのつながりの資産(ソーシャルキャピタル:社会関係資本)が減少していき、兼業農家を持続できなくなってしまい、残余型へ移行せざるをえなかったのでしょう。
ちなみに「残余型」には経営者や地元型ではない自営業主もいます。『カイシャ(職域)』にも『ムラ(地域)』にも根差していない人たちという意味らしいです。しかし、この残余型の内訳の中で比較的多いのは都市部の非正規労働者なのだそうです。しかも、所得の低さを補うソーシャルキャピタルが少ないのが特徴です。この30年でそうした人が増えていると見ることができるとのことでした。
この時点で自分が思い出したのは、「地元型」は岡田斗司夫さんが友達不要論で言うところのヤンキータイプの経済圏のことでした。ヤンキーはあまり収入が高くないけれども、仲間の持っている道具や力は無料で共有財産として扱うことが出来る。いわゆるシェアリングエコノミーですね。その代わり呼ばれたら集まらなきゃいけない。そういう経済圏の人たち。
そういう対人関係が面倒くさい人は生活コストが上がるので、お金を稼げばいいという事を言っていました。相互扶助の集団にも入れず、十分な生活コストにかかるお金を稼ぐことが出来ない人が増えてきたという事が出来るかもしれません。
さて、要約に話を戻します。そこから更に日本で転職が難しくなっている背景について触れています。それはキャリアアップのためには、企業内の昇進を考えるよりも、転職が必要だと考えているからです。企業組織はピラミッド構造なので、昇進は一部の人に限られてきてしまうからです。
しかし、なぜ日本では転職が流行らないのか。その理由について次のような話をされていました。明治維新後の近代化と工業化を進めるにあたって、官庁や軍隊のシステムを雇用慣行を整えるのに用いていたというのです。当時の日本人が持っている人をまとめるためのノウハウがそこにしかなかったからでしょう。
官庁や軍隊のシステムでは、組織内で階級が上がっていくけれども、階級は職種を表すものではなく、組織の都合によって色々な部門に配属され、様々な仕事をこなしていきます。近代化の中で作られたこのしくみが、日本の大企業で広まっていきました。新卒一括採用で入社し、社内で教育され、様々な仕事を経験しながら、他の企業には映らずに、勤務年数が評価されて昇進していく。現在の大企業で見られる代表的な雇用慣行は、こうした成り立ちをしています。
つまり、メンバーシップに対して評価がついているという事です。
職業的専門性に対しての評価はあまり反映されていないのだと思われます。
時間で人を管理するタイプの雇用ではメンバーシップ型の評価になりやすいのは、明治維新の後から出来上がっていたシステムで、長い時間採用されてきていたからなんですね。サービス残業を組織に変化を起こすことが難しい理由に、明治維新以降から時間をかけて習慣づけられ、根付いていってしまった日本の組織の風土というものも大きいのでしょうね。
ちなにみ、日本にもキャリアを発達させやすいしくみを作ろうとした時期があったようです。実は日本政府は1961年代に、その方向性を進めようとしたことがあります。しかしうまくいきませんでした。企業が反対したからです。「せっかく社内教育で育てた人材が外に流出する」と考えたからです。人材が流出するよりは昇進や査定の評価は不透明なままにして、企業別組合の要求と勤続年数の評価で妥協したほうがよい、と考えたのでしょう。
しかし、誰しも望めばキャリアを築いていけるシステムにしていかなくては駄目だと思います。そのためには企業内で扱われる透明な評価ではなく、どこでも使えるような企業横断的な評価基準が必要になります。
アメリカでは公民権運動以降の1970年代に差別による採用、査定、昇進に関する裁判が頻発したそうです。企業側は対策として査定や昇進の基準を明らかにし、透明性を高めるしかなかったとのことです。その後、学位獲得競争が始まったという問題はありましたが、社内でしかキャリアが築けないしくみよりかは技能蓄積が評価されると言えるでしょう。
アメリカでは、役職、ポストも公募制にしているところがあるようです。
必要とされる学位、職歴、携わったプロジェクトなどを応募するシステムです。日本でもいきなり採用するのが難しければ、社内でポストを公募することから始めてはどうかと小熊さんは提案しています。
日本型の雇用慣行の問題点は、一定数の人しかキャリアを築いていけません。社内でキャリアを築けない場合の選択肢が、残留か中小企業を転々としながら技能蓄積をしていくしかありません。しかし賃金はあがっていきません。非正規雇用だとさらに大変です。所得を補うソーシャルキャピタルが少ないからです。そのような環境におかれている「残余型」が増えているということも社会として大きな問題だと言えます。
ソーシャルキャピタルはインフォーマルなものが多かったので、ここに支援サービスを作ったり、公的な仕組みを作り直す必要があるのかもしれません。それから、大企業でキャリアアップする以外の選択肢のコストがかかる事と、リスクが高すぎる事が問題かもしれません。低コストでキャリアアップを考えられる仕組みの構築が必要かもしれません。
政治主導で変化していくことも期待してもいいとは思いますが、政治が変わるためには、市民教育が必要であることが徐々に明らかになっています。しかし、現実は政治の市民教育が進んでいるとは言い難い世の中です。
ましてや、この問題の当事者である『残余型』の人たちがこの問題に気づいているかどうか問題もあります。
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