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トイストーリー4 が描いた現代の大人が潜在的に抱える課題と、それに対するピクサーのアンサー。

多くのアニメ作品は、子供向けのフリをしながらも、その時代のポリコレ(言語表現や創作物、社会制度などからあらゆる差別をなくすべきだという考え方のこと)と現代人が直面しやすい問題を象徴的に描いていたりします。直接的でないため、説教臭くないので見やすいです。しかも、ディズニー作品ですから、時代の先端技術と優秀なスタッフを使ってそれらが描かれています。社会に対する問題的作品として見る必要がないので、エンターテインメント作品としてもとても見応えがあります。

という事で、今回はトイストーリー4 について語ります。ネタバレを含みますので、内容を知りたくない人は引き返して下さい。

現代人が抱える問題の宝庫

まず、本題に入る前に僕の個人的な感想としては、とにかく色んな要素が詰め込まれていて満足感が高かったです。非常に多くのメッセージやメタファーが混在していて、認識できたものを咀嚼して消化しきるには、かなりの時間を要しました。ある意味で胃もたれを起こしそうな映画でした。それが一番はじめに思った感想でした。

さて、この映画は現代に生きる私たち大人が直面したり、これらの人生をよりよく生きる上で重要なテーマが沢山描かれています。

例えば、ワークライフバランスであったり、女性の社会進出、セカンドライフ、若手教育、世代交代などです。他にもまだまだあるかもしれません。こうした色々なものがギュギュっと詰まっています。今回はそのあたりのことを語ってみたいと思います。

ちなみに、僕はブルーレイディスクで日本語吹き替えと英語字幕で観たのですが、ちょっと気になるシーンがあったので、見直す際に吹き替え無し(英語)を、英語字幕付きで改めて観てみました。気になったところや引っかかったところに発見がありました。日本語と英語の表現ではニュアンスや情報量が違うので、セリフだけでも何度も楽しめる作品でした。その箇所については後述します。(ウッディとフォーキーについての箇所で劇中歌の歌詞について書いています)

ちなみに、この作品は、日本よりも海外での評価が高いらしいです。ポリコレ的で社会問題を扱っているので、その点はかなり納得しています。しかし、日本では評価が別れているそうなのです。最近、評価したくないと言っていた人の感想を聞くことが出来たのですが、理由を聞くとその意見にも納得することが出来ました。最後にその事も語りたいと思います。

漫画家山田玲司さんの解釈

いきなりですが、トイストーリーのシリーズに出てくる、おもちゃが象徴しているものは何かという話をしたいと思います。

漫画家の山田玲司さんがヤングサンデーの中で語っていて上手い説明だと思ったのですが、ウッディを始め、アンディのおもちゃ達がしていることは、『子育て』です。つまり、彼らは親であり、養育者、PTAのようなチームであると言うのです。

自分もこの解釈には同意見です。山田玲司さんは、最初のトイストーリーは、親チームに成り立てのバスが親としての役割を受け入れるまでの話と説明しています。いつまでも学生気分で夢を追いかけているバズ(若者)に「目を覚ませ!お前はおもちゃ(養育者)なんだ!」と諭している話だと言っていました。

そして、トイストーリー4と は、そんな子育てを終えて、役割を果たした後の親の話であると説明しています。僕もこの解釈を採用しているのですが、他のテーマもあるので、出来る限り拾いながら、語ってみたいと思います。

ウッディの役割依存からの脱出

アンディが大人になり、巣立って行った後、ウッディは新しい持ち主のボニーの元でこれまで通りの役割に就こうとします。しかし、ボニーのお気に入りにはなれません。それどころか、ボニーによって保安官バッジを外され後輩のジェシーに保安官バッジを渡されてしまっています。それくらい役割を貰えていません。要はお払い箱になっているというのが、冒頭のウッディの状況です。

この話のメインストリームは、そんなウッディが変化していく話です。ウッディが変化する要素としては2人の人物との関わりが効いてきます。新入りの手作りおもちゃフォーキーが入って来たことと、昔の仲間だったボー・ピープとの再会です。新しい持ち主に引き離されて別れてしまったのですが、再会したボー・ピープは以前とは異なり、自分で行動を決める自由を手に入れた姿でした。そんなボー・ピープと出会って冒険することで、ウッディは新しい生き方を体験します。この人との関わりでウッディの物語が展開していきます。ウッディの話の線ではこの2人が特に重要な人物となっています。

ウッディとフォーキー

まず、そんな重要人物の1人であるフォーキーについて説明します。ウッディは役割を求めて、ボニーのキンダーガーデン(保育園)体験に無理矢理ついていきます。親元を離れて心細くなっているボニーをウッディは陰ながらフォローします。そんなボニーが工作の時間に自分でおもちゃを作ったことで、元気になる姿を目の当たりにし、元気に参加している姿に安堵します。

ちなみに、ここでフォーキーを作ったボニーが元気になる姿を描くことで、おもちゃの役割と必要性が定義されています。ここで描かれるおもちゃの役割とは『自分だけの、自分の為だけの存在』として、子供に安心と勇気を与える事として描かれています。

ところが、その役割を果たそうとしない新入りのフォーキーにウッディはとてもヤキモキしてしまいます。ウッディはおもちゃの役割をよく理解していますし、おもちゃとしての役割を果たすのに一番効果的な仕事が出来るのがフォーキーだと知っているからです。この辺りは、会社の新人教育担当の苦しみを描いている気がしました。「今時の若い奴は」的な感じですね。

一方で、フォーキーは自分の役割はゴミだと思っていて、自分からゴミ箱に向かっていきます。この辺は、自尊感情が低い自傷行為をしている死にたがりの若者をポップに描いているような気がしました。特に作中歌の "I can't let you throw yourself away" の歌詞からそんな印象を強く受けました。製作スタッフから作品を見ている人に向けて、生きていてよ、僕は君を見捨てたりしないからという、そんな願いやメッセージが込められている気がして序盤から涙が出そうになりました。

そんなウッディに変化が起こるのは、ボニー一家が移動遊園地に向かう途中のことです。フォーキーがゴミとしての自由を求めて車から降ります。フォーキーを連れ戻すために、ウッディも車を降りフォーキーを連れ戻すために捕まえに行きます。フォーキーを確保し、車を追って移動遊園地に向かって2人は歩きます。到着までの道のりで、2人は対話をします。

フォーキーは無邪気にあれこれ質問します。ウッディは質問に答えるうちにアンディとの思い出を語りだします。『子供たちは大人になると、家を出て俺たちの知らない世界へいく。』ウッディは言います。「不満なわけじゃない、置き去りにされると自分が、、用無し、役目は終わった」と。今まで直面する事を避けてきた事実(ボニーにとって用無しになっていること)と向き合います。そして、自分も別の生き方を迫られている事に気づきます。フォーキーが用無しになったウッディに親近感を抱き、関係が変化します。

役割を終えてしまっても自分たちは生きているし、ある意味役割から解放されて自由である。そこまで名言されてはいませんが、フォーキーにとってゴミは自由で暖かいと言っていたのを聞いて、ウッディは少しフォーキーの気持ちを理解し、「ボニーもフォーキーに対して同じ感覚を持っている」と伝えました。こうしてフォーキーともようやく心の交流を持つことができるようになります。ウッディはフォーキーと心を通わせるうちに、フォーキーにボニーを任せられると感じるようになり、世代交代をしても大丈夫だと感じるようになっていきます。

ウッディとボー・ピープ

冒頭のアバンタイトル(アバンタイトル(映画やドラマ、アニメや特撮などでオープニングに入る前に流れるプロローグシーンのこと )では、もう1人の主要人物であるボー・ピープとウッディが離れ離れになるエピソードが描かれています。新しい持ち主に連れて行かれそうになるボーと一緒に行こうとしますが、アンディのおもちゃである役割を思い出したアンディを優先して、ボーと別れる決断をしました。しかし、ボーも子供を想い、役割を優先する信念を抱いているウッディを尊敬していたので、別れを受け入れたように描かれています。
この描写は、仕事の為に自分の家族を犠牲にしてしまった男性や、自分の人生よりも、仕事を優先的に選んだ生き方をしてきた男性とそれに理解を示す女性を描いているように思いました。

そして、車から飛び降りたフォーキーを追いかけたウッディが、対話するうちに自分の後を継ぐ存在としてフォーキーを意識し始めた頃に話を戻します。移動遊園地の近くまで来たところで、アンティークショップのショーケースにボーの飾り台を見つけ、彼女がいる可能性を感じたウッディは、店内に入りました。そこで、ボイスボックスが壊れてしまい、売れ残っているアンティークのおもちゃ達にウッディのボイスボックスが狙われてしまいます。なんとか逃げ出しますが、フォーキーが捕らわれてしまいます。

ウッディは店から逃げ、移動遊園地に到着したところでボーと再開します。ボーは新しい仲間を見つけて自由に逞しく暮らしていました。ボーは移動遊園地に来る不特定多数の子どもに遊んでもらうのも素敵だ、と言って、1人の持ち主にこだわる理由は無いとウッディに伝えます。これは1つの仕事や役割にこだわる理由は無いという現代の私たちに通じるものがあります。また、親としての役割だけが人の役割ではないというメッセージも感じます。『仕事のための自分なのか、自分の為の仕事なのか』という問いを視聴者に突き付けている気がしました。

この時に気づく事があります。ウッディにもボーにも共通している事があるのです。それは、「子供の力になれる事は素晴らしい」ということをお互い変わらず大切にしている点です。役割に縛られていても、自由に暮らしていても、生き方が大きく変わった中でも、大事な部分は変わらないでいたという事です。ここがしっかりしているからこそ、その後もウッディもボーも苦境の中でお互いを見捨てずに尊重できましたし、強く惹かれていきました。

そして、ボーがアンティークショップに居たことがあると分かったウッディはフォーキーの救出の協力をボーに頼み込みます。ボーは一度は断りますが、ウッディが変わらず子どもの事を考えて熱心になっている事がわかり、ボーも考えを変えます。

この後、フォーキー救出までのアクションシーンは、ボーが逞しくなった今時の新しい女性像を描いています。アクションも派手で、誰よりも率先して行動し、リーダーシップをとっています。ウッディに対しても遠慮なく指示しています。ピクサーが社会に向けて、女性が活躍する事を意識した作りになっています。ポリティカルコレクトネスですね。いかにもアメリカらしい感じがします。

フォーキーを助けて、ボニーの元に帰ろうという時に、ウッディはボーと再び別れなければいけない事実に直面します。いざ、別れが迫る時、バズはウッディにボニーの事は心配しなくていいと伝え、「内なる声」に従ってウッディはボーと行く決心をしました。自分が用済みになっていることが分かり、それまで自分が担っていた役割をちゃんと引き継げる人がいて安心できる状況であることが確認できたからこそ、ウッディはそれまでの役割を捨てて新しい生き方を選ぶことができたのです。

僕は、このウッディの物語が今の日本にとって必要な物語なのではないかと思っています。定年間近でセカンドライフを考えなくてはならない人たちや、既に定年を迎えて退職し、奥さんに粗大ごみなど言われながら家にいる男性が多い事が問題視されていましたよね。今働いている世代の人たちは、自分の人生の目的を意識しがら、『自分の人生をより良くするための仕事』を考えていく必要があると思います。

分かりやすく認識できた伏線

さて、先ほどアバンタイトルでウッディとボーの別れが物語全体の伏線になっていると伝えました。他にも、バズに伝えた「内なる声に従っている」というメッセージがバズから返ってくること。他にも最初のRCの救出がフォーキーの救出を暗示していました。それから、ボニーがウッディの保安官のバッジをジェシーつけてしまう事も、最後はウッディが保安官バッジをジェシーに託していましたが、このように心境の変化がわかるような工夫がされていました。役割を奪われそうで必死にもがいていたウッディが、その役割を自ら受け渡す心境の変化を際立たせるための演出でもあるのです。

感動した演出

演出と言えば、セリフなどで登場人物が語らない感情やメッセージなどを表現する工夫などのことです。僕が感銘を受けた演出は、フォーキーを救出に向かう道中のシーンで、持ち主にこだわるウッディに対してボーが「この世界は広くて美しい」と問いかけるところです。その際にテントの屋上から世界を見下ろすシーンがあるのですが、そこから見える景色を綺麗に描くことで、ボーが見ている世界の美しさがウッディにも同じように見えて、ウッディにも伝わるというシーンになっています。

綺麗な世界を綺麗に見せるというのは演出の技術だと思います。演出の専門家ではないので印象からそう思ったという程度ですが。こうした効果は、他にも、アンティークショップのシャンデリアの美しさについてボーが語るシーンがあります。嫌いだったアンティークショップの中でも、ここの景色だけは好きというボーとウッディが見つめ合うシーンがあります。シャンデリアで乱反射した色とりどりの光が二人の感情の高ぶりや、ロマンティックな雰囲気を視覚的に表現してくれています。

光を使った演出は他にもあって、僕でも理解できたのは同じアンティークショップ内で、照明の色を巧みに使ったホラー演出でした。ウッディがベンソン達に追いかけられるシーンで、薄暗い通路を通る際に、赤い照明がところどころ入っていて不気味さが表現されていました。他にも、ベンソンやギャビーといった洋風の陶器人形が暗闇からぬっと現れるシーンもホラー演出が効いていました。BGMも弦楽器の重低音が醸し出す不気味な雰囲気だったり、照明の使い方や、カメラワークなど様々な効果が光っていた感じがします。

フォーキーとギャビー・ギャビー

もう一人の主要人物である、敵役のギャビー・ギャビーもトイストーリー4を語るには欠かせない存在です。ウッディがボーを探しにアンティークショップに忍び込んだことで、フォーキーが囚われてしまいます。囚われている間にフォーキーはギャビーがハーモニーという女の子と一緒に遊びたいという願望を知ることになり、おもちゃの役割を理解したフォーキーはギャビーと心を通わせます。このシーンでは、敵にも行動の理由があることを伝える効果もありますが、これまでのシリーズ1~3までに描かれて語られてきたおもちゃの役割と願いを知る復習のシーンでもあります。視聴者にこのことを思い出させることで、物語への共感を深め、感動を大きくする効果があったのではないかと思います。

それでは、最後にこのシーンを成立させる要素としてのフォーキーというキャラクターの特殊性を語りたいと思います。言わずもがな、フォーキーはゴミから生まれています。不用品であるところから始まっていて、その不用品がおもちゃとして生まれ変わった存在なのです。これがフォーキーの特殊性です。

そして、トイストーリー4 に流れる『おもちゃはやがて捨てられる運命を背負った存在』というテーマと、『既に捨てられた存在』であるフォーキーの対称性が際立っています。この二つの存在は、円環的なサイクルになっていて、役割を終えて捨てられた存在から、新しい命(役割)を吹き込まれた存在になって、やがてその役割もいつかは終わる。その繰り返しであることが示唆されています。そして、「生まれ変わる転換点」にいる存在がフォーキーなのです。彼がいるからこそ、彼と関わったウッディもギャビーも変わる事が出来たのです。

ウッディに関しては先に説明した通りですので省きます。ギャビーとは、不用品にもなれず、子どもと遊ぶ役割も果たせず、どちらにもなれないまま時が止まった存在なのです。彼女の時間を動かす要因は2つあります。それはウッディのボイスボックスを手に入れたことと、フォーキーの共感でした。ウッディは彼女のコンプレックスであるボイスボックスの故障を直せる願望を叶える為の条件であったわけですが、フォーキーは彼女の感情に触れる事でギャビーに素直な感情を引き出し、応援しました。これらの要素によってギャビーは新しい行動が促進されたのです。

ちなみにフォーキーは、ウッディからおもちゃの役割を先に教わっていた事でギャビーが求めている感情に共感できるようになっています。そして、共感されたことでギャビーは勇気をもらい、最後にギャビーが全く知らない迷子の女の子の力になりたいと身を捧げ、役割を果たすことにつながっています。ハーモニーと遊ぶ望みが叶わなかった絶望感から立ち直る力にもなっていることが描かれています。

ちなみに、フォーキーもギャビーが成長していく様を見ることで、おもちゃの役割を再確認することができているので、おもちゃとしても成長しています。この成長があった事もウッディが皆んなと別れる決断をする事が出来た一因でしょう。

これだけ色々な要素を短い時間の中に圧縮しているにも関わらず、誰もが幸せになる結末まで話を纏めています。この構成力の凄さを感じた事もこの映画の感動ポイントですね。

評価のポイント

海外で評価が高いのは、冒頭で述べたように社会問題を取り扱っている事が大きいのでは無いかと思います。そう言った意味でも最先端ですし、CGアニメとしての技術も最先端です。演出の技術も高ければ、話の構成も飽きさせない作りも、多くの点で評価が高いのだと思います。

評価が別れるとは言いましたが、上記の点では多くの人がほぼ同じ意見では無いかと思います。この映画が日本であまり評価かれなかった点があるとすれば、ウッディが元の鞘に戻らなかった点では無いかと思います。

この作品を強烈に好きだと言っている人たちにとって、あの結末は裏切りだと感じられたのだと思います。みんなが見たかったのはそういうハッピーエンドだったんだと。だから、キャラクター達の変わった姿であったり、今までとは違うイメージを植え付けられる事に激しい抵抗感があったのだと思います。それはキャラクター達に対する愛情が強いからこそなんですね。

このことは、ある人の生配信で知る事ができたのですが、決して社会問題に対する意識が低いというわけでは無いのだと気づく事が出来ました。僕としてはとても意義深い体験が出来ました。この場を借りて感謝を述べさせていただきます。ありがとうございました。

そして、ここまで読んで頂いたみなさん、最後までお付き合い頂きましてありがとうございました。

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