ニヒリズム/の克服

江川隆男『超人の倫理』を読むために

1.1 ニヒリズムの普遍化

今回は私たちが『超人の倫理』というテクストを読む動機を確認したいと思う。『超人の倫理』を見ると、「個人の個人化」や「諸価値の価値転換」などニーチェ的な目標が奨励されており、テクストの通奏低音になっていることが分かる。レジンスター(*1)によれば、ニーチェの仕事全体を貫く哲学的なプロジェクトとは「ニヒリズムの克服」である。「個人の個人化」や「諸価値の価値転換」はそのための手段だ。とすると、そうした手段を私たちが真剣に受け止めるためには、現代のニヒリズム状況が確認しておく必要がある。ところで、江川は或る論文(*2)で現代を「普遍化したニヒリズム」の時代と規定している。

普遍化しているということになれば、ニヒリズムは当たり前になりすぎて、逆に気づきにくいということになるが、それ(ニヒリズムの普遍化)は本当か。

そもそも、ニヒリズムとは何か。

ニヒリズムとはその最も基本的な意味においては、「人生や世界は無意味だ」つまり「すべては無意味だ」という否定的な感情である。ざっくり言うと私たちが「すべてはどうでもいい」と呟くときのあの感情だ。「人生や世界は無意味だと思うか?」と訊かれて「イエス」と答える人はニヒリズムを前提としている。


*1:バーナード・レジンスター『生の肯定──ニーチェによるニヒリズムの克服』(岡村俊史・竹内綱史・新名隆志訳)法政大学出版局、2020年
*2:江川隆男「ニーチェの批判哲学──時間零度のエクリチュール」、『すべてはつねに別ものである──〈身体‐戦争機械〉論』河出書房新社、2019年

1.2 ニヒリズムの区分/段階

ざっくり言うとそういうことなのだが、ニーチェのテクストに実際に当ってみると、ニヒリズム概念はかなり錯綜していることが、分かる。概念の理解への手掛かりはニーチェが或る断章(*3)でニヒリズムを二つに区別しているところに求められるだろう。そこでニーチェはニヒリズムを〈受動的ニヒリズム〉と〈能動的ニヒリズム〉に区分している。

〈受動的ニヒリズム〉とは「精神の力の下降および後退としてのニヒリズム」「もはや攻撃することのない疲弊したニヒリズム──その最も有名な形が仏教にほかならない」。

〈能動的ニヒリズム〉とは「精神の高揚した力としてのニヒリズム」「そのニヒリズムは強さの兆候でありうる」「このニヒリズムがその相対的な力の極大に達するのは、暴力的な破壊の力として」である。

ところで、ドゥルーズは人間の歴史(時間上の系列)の原動力としてのニヒリズムを四段階に区別した。少し先取り的なことを述べておくと、ドゥルーズそして私たちも、ニヒリズムの時系列上の進展に無批判ではいられない。私たちの最終目標は、のちに見るレジンスターの「ニヒリズムの克服」というプロジェクトからも明らかなように、「脱‐ニヒリズム」であるからだ。〈能動的ニヒリズム〉は「超人の倫理」(エチカ)に反する(後述)。

さて。以下、ドゥルーズの(ニヒリズムの)区分についての記述は江川隆男の論文(*4)の記述をほぼコピペ(手動w)。ドゥルーズは以下の四段階にニヒリズムを区分した。

①否定的ニヒリズム(無限性)②反動的ニヒリズム(無際限性)③受動的ニヒリズム(有限性)④能動的ニヒリズム(これらすべての特性の破棄)。

①〈否定的ニヒリズム〉とは、世界のうちに存在しない超越的価値──この実体化が神である──を設定することで、この世界に実存するすべてのものの価値を低下させることができるという否定の全能性である。

②〈反動的ニヒリズム〉とは、人間のうちに生まれた「超越的価値が機能する神の場を占拠して、自らが地上の神になるために、神を破壊する」精神のことである。〈反動的ニヒリズム〉は神となった人間が欲望するもの、例えば、拡大、戦争、開発、右肩上がり、科学的真理の探究、社会の進歩、等々といった事柄によって特徴づけられる。

③〈受動的ニヒリズム〉とは、無への意志から意志それ自体の無へと移行した(無際限性の騒々しさから脱け出した)有限性の静かな自覚である。それは、静かに死ぬこと、受動的に消滅することを教えるのである。〈受動的ニヒリズム〉は、縮小、現状維持、右肩下がり、退化、エコロジー、動物愛護、等々といった事柄によって特徴づけられる。

「このように考えると、二一世紀の現代の人間のほとんどがこうした〈反動的ニヒリズム〉と〈受動的ニヒリズム〉との間を揺れ動く存在であることがわかるだろう」(p.206)

④〈能動的ニヒリズム〉とは否定の自己完成であり、ニヒリズムそのものの完成である。それは、世界の没落を、文明の消滅を意志するという意味で新たな〈無への意志〉である。有限性の世界、あるいは〈有限で‐無際限な〉世界は終焉を迎える。ニヒリズムは、今度は、受動的に消滅することではなく、滅びることを意志する人間における自己破壊によって(*5)、つまり世界に死を与えることによってその完成に至る。

ニヒリズムを極限まで或る仕方で徹底するとはこういうことだ。「ニヒリズムの克服」をその哲学的プロジェクトとしたニーチェと共に、私たちはニヒリズムを脱する倫理学(エチカ)を起ち上げなければならない。あるいは別の仕方での徹底を……

「[…]もっとも本質的なことは、ニヒリズムのなかでの破壊ではなく、ニヒリズムそのものを破壊することである。エチカの思考は、つねにそうである。ニヒリズムのなかの破壊は、やはり破壊を目的にすることになる。ニヒリズムの徹底化は、次に継起するニヒリズムの様式を目的因にすることと常に混同されてきた。しかし、反道徳主義的なエチカが思考してきたニヒリズムの徹底化は、つねに脱‐ニヒリズムであり、ニヒリズムそのものの破壊以外のなにものでもない」(p.207)(☆)

以上で、『超人の倫理』を読むための準備は整った。

☆付録:ミシェル・フーコー『カントの人間学』(玉寺賢太訳)新潮社、2010年、p.161:

[…]私たちはすでに半世紀以上も前から、この批判のモデル[哲学的人間学に対する批判のモデル]を手にしている。ニーチェの企ては、人間についての問いかけの増殖についに終止符を打ったものとして理解しうるだろう。実際、神の死は、絶対者にとどめを刺すと同時に人間自体を殺すような、二重の殺害の身振りとともに宣言されたものではなかったか。そもそも有限性のなかにある人間は、無限の否定でもあればその前哨でもあって、まさにそれゆえに無限と切り離すことができない。だからこそ、神の死は人間の死[人間の終焉]において完成するのだ。人間をも無限をも解放するような、有限性の批判を考えることはできないのだろうか(*6)。[…]「人間とは何か」という問いが、哲学の全領野のなかで辿った軌跡は、その問いを退け、無力にする、ひとつの答えにおいて完結する。すなわち、超人。

江川によると、フーコーのこの〈神‐人間〉の死というフーコーの問題提起は〈能動的ニヒリズム〉が不在の場合にのみ有効性を持つ。


*3:『ニーチェ全集 第10巻(第二期)』(清水本祐・西江秀三訳)白水社、1985年、9[35]、p.30-32参照
*4:江川隆男「破壊目的あるいは減算中継──能動的ニヒリズム宣言について」(前掲書)
*5:ニーチェ自身の定義に「破壊」という言葉あったことに注意!
*6:ミシェル・フーコー『言葉と物』(渡辺一民・佐々木明訳)新潮社、2020年、第九章、pp.356-404参照


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