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催眠療法で観た、過去と未来のある今

ある時、流産したという人の話を聞きながら、私はなんとも言えない感覚を味わっていた。
どうしても自分の内側にある感覚が気になって、周りの女性たちのように話に集中できず、同じ女性としておかしいんじゃないだろうか、と自分を疑っていた。
その内側の感覚は言葉にするなら「違和感」だった。どうしてもその感覚がぬぐえず、私は黙ってその場にいた。そうするしか、その時の私にはできなかった。

その日の午後、ちょうど初めて行くセラピストのヒプノセラピーを予約していたので、その体験も含めて内観してみることにした。
前世を含む、意識の壮大な時空の旅だった。

セラピストの誘導で、瞑った目の前に広がる光景は大昔のヨーロッパのようだった。私は編み上げの白いブーツを履いた騎士のような格好をした男性で、刀を持っていた。馬に乗って、なにか練習をしていた。なぜその時代の、その場所にいるのかはわからなかった。ただ言えるのは、その時の自分に必要なものが視えたり感じられたりするということ。

彼には老いた母親がいて、その歩けない母親をひとりにはさせられないと思っていた。その母親の目は、懐かしいような見慣れた安堵感を宿していた。
後になって、その目は私が一番親しくしていた友人の目で、彼女を見守っている私と、母親を思う彼の心境が同じだったことに気づいた。
私は、生まれ変わりを信じている。だから彼女とは、もしかしたら生まれ変わって再会したということなのかも知れないなと思った。

その後彼は愛する人と結婚するも、彼女との間に宿った命は産まれて来なくて、悲しむ彼女を前に何もしてあげられない無力感と悲しみでいっぱいだった。私は、その思いに触れてボロボロと泣いた。愛しい人を思うあまりに、深く沈黙した彼の分まで。

その後もその男性の人生を辿り、彼の経験やそこに込められたメッセージを今、現代の日本に住む女性である私として体験した。彼から最後にもらった温度のある言葉は私に勇気をくれた。
本当に自分の前世なのかはわかりようがない。
けれど催眠状態で体験する感覚の世界は、リラックスしているせいか自分の昨日のことを思い出すよりもむしろリアルで、匂いや彩り、感情は今ここにあるものと何ら変わらなかった。

ひととおり終えて、この身体と繋がる自分の意識に戻ってくると、さっきまで感じていた自分が女性としておかしいんじゃないかという疑いや、突如現れた彼の母親への心配などの自分の感情が、意識のスクリーンに映し出されたような、客観的な視点が生まれていた。

あの体験を通して、あえて言語化するならば、体感や体験、その認識はすべての人にとって固有のものでありながら、愛する者の悲しみも慈しみも、そして喜びや愉楽も、心と感性で寄り添えばやはり共有のものであるということ。

過去の歴史や価値観によって、相容れないものが存在しているように見える世界でも、それは時々の愛の形であり、自分自身の可能性を信じる気持ちと勇気は、命という根源からの大いなる力だということ。
性別や立場などあらゆる違いを超え、表現し分かちあうこと、表現から感じ取ることで生まれるものがあること。

彼からもらった最後の言葉は、愛する人に愛を表現することを、思い残し躊躇わないで欲しい、という内容だった。

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