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県北戦士アガキタイオン番外編「皆本の前職」

皆本の前職


 皆本は月岡館長から五点クーリングを指示され、隣りの給湯室の冷蔵庫に冷えピタとクーリングバッグを取りに走った。すかさず引き返し意識を失っているマキナへ迅速な処置をしつつ、介護職員として老健で働いていた前職時代のことを思い出していた。

 戦隊ヒーローのぬいぐるみショーの最中、熱中症で倒れた月岡道場門下生の同僚、マキナこと関川真希への手当てをしつつ、皆本響子はこの感じ、懐かしいなと、虎じいのことを想い出した。


 虎じいは元漁師だった。幻魚と呼ばれてる、深海魚のおいしさを教えてくれたのは虎じいだった。新潟に越してきて、まだ間が無かった自分に、海のことや、この土地のことを教えてくれたのも虎じいだった。虎じいは車椅子が嫌いだった。しかし歩けねーんだから使うしかねーだろと、あたしは邪険にあしらったもんだった。

 他の職員はもっと虎じいをひどく扱った。漁のことや、昔のことは確実に覚えているが、見当識障害で朝食った飯のことも忘れているから、すぐ不機嫌になって暴れるんだ。おむつも自分で外して排泄物をなぶるし、皆ケアを嫌がった。けっきょく新人のあたしの役回りになるのだ。虎じいの介護はでも、昨年まで努めていたラーメン屋の忙しさと比べれば屁でもなかった。五人前のタンメンを一度に作るシーンはないし、三十六時間不眠不休でぶっ通しで動く局面もないし。外食に比べたらちょろいもんだった。でも、月給は十万減った。

 虎じいは、よく鯨捕りの話をした。そういうのは日本海にはねーだろ、といぶかったが、楽しそうなので、おお、そうかー、と大仰に傾聴してやった。あたしが他の人の排泄支援で手が回らないときは、オムルンの自動血圧計「健太郎」がじいの相手をしてくれた。

しかし虎じいがとどめの銛を打つシーンを熱弁すると、高血圧デス!落チ着カンカイ!と制止アラームで興を冷ました。

 その日も、健太郎の警告をいっさい聴く気もなく、虎じいは語りを続けた。

「わしの一番弟子はスターバックじゃった。一等航海士でのう、思慮深い男じゃった」
 えっ?
「敬虔なクエーカー教徒での。わしがカッとしたときは、いつでも冷静にストッパー役を務めてくれたもんじゃ。ピークォド号が安全な航海を続けられたのは、彼の冷徹な理性と判断力があってのことじゃったと、今でも思っとる」
 えっ?その話、メルヴィルのぱくりじゃねーの? あたしは、リビングに一番近いタツ婆のおむつを替えつつ、聞き耳を立てた。隙を見てタツ婆が鉤爪で攻撃してくるので、肘で躱しつつ。月岡道場の巻き藁稽古で鍛えてあるので、逆に爪を立てたタツ婆の方が怯む。瞬息でパッド交換をする。

「スターバックにはナンタケット島に家族がおっての、よく息子の話をしてくれたもんじゃ。息子には、鯨に命をとられた父や兄のようにはなってほしくない。無事に、生還するのが漁師の務めであり、それが人の道じゃともゆうとった。ワシは差し違えになっても、わしの仲間、部下、片足を奪ってゆきおった白い鯨を仕留めたかった。やつへの復讐心で、常に心が煮えたぎっておった」

 いや、虎じい、両脚ちゃんと残ってんじゃん。あたしはおむつ替えを無傷で終えると、虎じいの血圧をパソコン入力するためにリビングに戻った。

 かくして虎じいは、予想を上回るようなボケぶりを発揮してあたしを退屈させなかった。ある時はトーマス・マン『魔の山』ある時はパール・バック『大地』ある時は中里介山の『大菩薩峠』・・・でも、その年の冬、例の世界的な新型ウィルス性の肺炎騒動で、虎じいは高熱を発して寝込んだ。防護ガウンを着込んで、解熱剤、そして五点クーリング、点滴など、対症療法で窮地をしのいだ。

 虎じいはアリステア・マクリーンの海洋冒険小説『女王陛下のユリシーズ号』に登場する不死身の男・キャリントン少佐のごときしぶとさで回復するが、平熱に戻るや否や持病の糖尿病が悪化した。近くの総合病院に緊急搬送され、自動的に退所となった。肺炎患者は立て続けに出てクラスターになり、職員も次々と感染した。本来三交代制の勤務が十二時間周期の二交代制になり、本来のケアも防護ガウン、防護キャップ、ゴーグル・マスク・グローブ着用のハードなものとなり、業務は辛辣を極めた。にもかかわらず、給与が上がるでもなく、国からの補助手当ても末端のあたしらには回って来ず、愛想尽かしでバタバタと職員が辞めてゆき、ますます残業が増えていったのだった。

 いつか虎じいの言ってた「いつか生還するのが漁師の務め、人の道」というスターバックの信念を想い出し、腹をくくる。

月岡館長が、「零細だけど、将来性がある」と自信満々紹介してくれた、犬猫出版社に転職した。月給十万円からのスタートと言われ大いに命の危機を感じたが、この会社の将来性に賭けるしかない。

 
 五頭山----神秘のパワーを蔵している五頭山の頂から太陽が昇り、皆本や関川、三島が住む阿賀野市を力強い光で充たした。

                              おわり


#二次創作小説 #阿賀北ノベルジャム #アガキタイオン

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