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アメリカンカラテ

大学で4年間、空手修行に費やし、1990年。留学の為、渡米した。今から30年以上前の東海岸である。
当時はまだインターネットはなく、日本人も少ない田舎町。英語を学ぶには最高な環境だったが…。
学校と家を往復するだけの生活では、英語を話す機会も多く取れない。コミュニケーションを増やす為だと割り切り、マーシャルアーツの授業を選択する事にした。

ただ初めての他流道場、さらに外国。他流と言うだけで、可愛がりと言う名前で、ボコられかねない世界である。空手経験はあるが、大学での事は敢えて、伏せて入門する事にした。
しかし、そこには、我々の想像を超越するアメリカンな空手道(からてみち)が待ち構えていた。
パンフレットを見ると、師範の先生は日本人だったので、まずはご挨拶に行った。
50代の小柄だがマッチョなオヤジ。エルビスみたいな顎まであるもみあげ。渡米して30年以上だそうだ。名前が「鉄心」それ絶対芸名でしょ。とツッコミたくなった。
流派は「武徳會」だと言う。筆者は京都生まれだが、昭和の京都の人間で武徳會を知らない人間はいない。男児は、小学生になったら、武徳会で(剣道か柔道)を習えと言われたものだ。大学で空手を始めて、夏休みだけでも練習できないかと、武徳会を調べたのだが、剣道、柔道、薙刀、合気道しかなくガッカリした記憶がある。だからこのオヤジの、空手なのに「武徳會」と言う言葉には胡散臭さを感じた。
「君ぃ、怪我をしてもいけない、初日は見学にしなさい。」
初心者を怪我させるなんて、あり得ない。これは、戦後の道場の紋切りがたの脅し文句。大学の空手部主将と言う身分を隠していたとは言え、舐め切られたもんだと思った。

当時、アメリカで空手と言えば「ベストキッド」これは邦題で、現地での題名は「Karate Kid」要はいじめられっ子だったラルフマッチオくんが、パット森田の指導で強くなり、LAの空手大会の決勝で、卑怯技を仕掛けてくる、恋敵のいじめっ子に勝つ。と言う、極めて分かりやすいストーリーだ。「なんじゃこりゃ」それが、空手家として、この映画を観た時の感想。変なルールの試合。お世辞にも上手いとは言えない空手。こんなんじゃ俺でも優勝だ。

週2回大学の体育館の片隅にある専用スペースでマーシャルアーツ(空手、合気道) の授業があった。50人くらいの生徒が、常時稽古していて、結構繁盛しているのだが、バンダナを巻いたり、袖を切り落としたり、絶対に日本の道場では見掛けないイカれポンチな格好のアメリカ人が多数習っていた。礼の代わりに四股を踏んで入ってきたオッさんもいたな。技術レベルは決して高いと思え無かった。師範代でも上手いと思ったのは2人くらいで、後は皆、肩に力の入りまくったフォームで、近い間合いから技を出すだけだった。

稽古の内容はイカれていた。師範の先生一人じゃ面倒が見切れないから、師範代とか、指導員とかいるんだけど、センセイへのリスペクトがすごくて、彼らの脳内では、日本ではさぞ壮絶な稽古をするんだろうと言う妄想が渦巻いる。
確かに南斗聖拳の本山では柱に立って、宙返りをして、鳥を手刀で真っ二つにしていた。虎の穴では、ブリッジして腹の上に巨大な岩を載せていた。しかし、いずれも漫画の世界。武論尊と梶原一騎の妄想だ。

ところが、やつらそれをマジでやろうとする。場所が無くて、外で稽古する日、街路樹の葉っぱを正拳突きの風圧で靡かせる稽古をさせられた。ガラスの破片だらけの砂利道を裸足で走らされたりした。そんな稽古日本でしねーよ。
参加はしなかったが、あの道場の有段者たちは、真冬の桟橋でガチスパーをやり、負けた奴は即、氷点下の海に突き落とされたと言う。また、スパーもグローブを着けない、旧アルティメット大会みたいなルールでやっていた。空手対合気道の試合で女性の合気道会員が鼻を殴られて曲がっていたとか。ありえねー。
結局、夏休みに2ヶ月だけアメリカンカラテを稽古して辞めた。もっとコミュニケーションを取れる場所を見つけたからだ。そして帰国。
その後、30年たち。大日本武徳会のホームページに「浜田鉄心総裁」のお名前を見た。あの鉄心先生である。また、別の本で「戦後、武徳会の復興を誓い海外に潜伏した勢力がいた」という記述を見かけた。まさか、その方が当人であった。
世界はせまい。

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