役に立たないといけない?#9
「なんの役に立つか分からないけど、あいつを呼ぼうぜ、と言われる人になりたい。」
と、糸井重里さんが書いているのを読んだことがあります。
「取りまとめができる」「データ解析ができる」「プログラミングができる」「デザインが描ける」そんな技術や力がなければ、会社にいることすら難しい。それは言うまでもなく当たり前のことで、自分も役割を果たさなければと躍起になるし、周りの人が役割を果たしていなければ、他の誰でもない自分が、真っ先に腹をたててしまいます。
「でも、、、」
「それだけなのかな?」
って、すぐに腹をたてる自分自身のくせに、心のどこかで、役に立つかどうかじゃなく、それ以外の存在意義はないものだろうかって、どこかで思ってしまいます。
「なんでだろう?この考えは、どこからくるんだろう?」
って思ったときに、ふと、昔のことを思い出したりもしました。
「学校へ行かないぼくは、何かの役に立っていたんやろうか?」
「存在しているだけで、生産性が一つもない。それでは飽きたらず、朝、学校に行かないぼくを見て母親を悲しませ、父親を苛立たせ、両親に甘えたいはずの兄弟の自然な感情すら奪う。眠ることと食べることと、うんこすることくらいしかできない。存在意義がないだけならまだしも、生きていることが、そのまま周囲の迷惑につながる。文字通り、存在自体がクソみたいなもの。」
もしあの頃の自分が、何かしらの役割を求められていたら、どうなっていたんだろうって、今もどうしても、そこが起点になります。
だから、いろんな矛盾を大量に抱えていて、ひとつもロジックが通らないけれど、本質的に、人は、存在していること自体に意味があるんだと、ぼくが勝手に思いたいんだなと、今さら気づきました。
そしてそれは誰かのためにそう思うなんてことは一ミリもなく、誰よりも、過去の自分自身を否定しないためだけっていう、ただただ自分勝手なところからはじまっている考えだったりします。
だって、自分の過去の人生の半分以上がクソだと思いながら未来を過ごすって、中々難しいしさ。
読んでくれた方、ありがとうございます。物事は、たぶんきっと必ず、いい方向に向かうはず。
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