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まるで、言葉の価値が暴落したかのようで。

1821年11月11日- 1881年2月9日

ドストエフスキーが生まれて200年が過ぎた。19世紀後半を代表する小説家・思想家になり、20世紀はもちろん、21世紀の現代でも読み継がれ影響を与えている。ドストエフスキーが予期しない相手にまで届いているし、未来でも古典として読まれるだろう。「消費」されずに済んだ、一握りの例。

ドストエフスキーに現代のネット社会の様子を見せたら、驚くかもしれないし、起きるべくして起きたことだと言われるかもしれない。

ネットの登場で、様々なことが可視化された。
残念だけど、私達の愚かさが、最も目につくようになった。悪い冗談みたいだ。

スマートフォンが行き渡り、ネットを利用することを意識しなくても、誰でも利用出来るようになった。書きたいと望むなら、誰でも書ける時代になった。読む人よりも書く人が多くなった。さらに、読みも書きもしない人が大多数になった。

読まれない言葉と、読まれても消費されて溶けて消える言葉が増えた。100年先に、誰のどの言葉が残っているか、予想するのは難しい。

それに抗うように、強い感情をぶつけたり、切り刻む言葉を見かけるようになった。おそらく、人の注目を集めるために。反応する人もいるけれど、逆効果で危うさを感じ離れる人が出るから、より強い感情や深く斬りつける言葉が増えていく。
広告もそうで、接した人の反射的な反応を得ることを求めすぎて、広告の質が昔より落ちているかもしれない。一部の手段を選ばない広告だけだけど、人は学習するから、そうした広告は相手にされなくなるだろう。


どうやら集合知や人の良心を信じた人達の予想は間違っていて、ネットの技術的な進歩と反比例するかのように、考えず感情的な人が増えてしまった。

ネットが発展することで、距離も時間も越えて、学んだり発見する人もいるけれど、考えず感情的な人達が可視化されてしまった。

教育の失敗だと思うし、まずいとも思う。民主主義では全員同じ1票で、考えないということは唆されることに対してノーガードだから。とても、危ない。
解決しようにも、本人が変わりたいと願わなければ、どうにも出来ない。


ネットを使いこなせる人と使いこなせない人で、人生がまるで変わってしまう。言葉も同じ。せめて自分は、ネットや言葉を使いこなせる側にいよう。

人の目を集めるために強い言葉を使わずに、考え続けよう。言葉は他者を傷つけることが出来るけど、優れた使い手が用いれば癒すことが出来ることも、諦めずに覚えておこう。

経験と考えたことを、書き残しておこう。評価されるためではなく、誰かに届いた時に、その人の栄養になったり、その人がさらに思考を進めることの助けになることを願って。


言葉の使い方も、ネットの使い方も、本来の姿はこれでいいのかと、せめて問いを忘れずにいよう。違和感を言葉にして考えることも、失わずにいたい。

Thank you for taking the time to read this.