見出し画像

ネットで不特定多数に対して言葉を放つ際に、国語力より大切な関係性のこと

言葉で他者を傷つけることや、炎上を防ぎたいのなら、言葉の選び方以前に、関係性作りが勝負だと思う。

・例外
・・問題発言
・・差別や偏見に由来するもの
・・その分野を知らなすぎること
・・炎上目的(手段を選ばず注目されたい)
 
・国語力
・・伝えようとする中身
・・どう言い換えても反応する人はいる
・・理解力も解釈も読み手のもの
 
・関係性
・・言動と新しい発言が書き手の意図しない文脈を生んでいる時、声をかけてもらえるか否か
・・それはどういうこと? と、確認出来ない間柄だった

前提として、「例外」に分類したことは、やらない。

関係性が出来ていて「あの人はそういうこと言わないよ(価値観からして動機が無いよ)」と思って貰えるなら、炎上するまでに「あの記事どうした?」と確認する猶予が与えられるだろう。

また、ネットは必ず初対面の人も読む可能性があるので、関係性が無い相手も存在する。彼らに対しては言葉遣いやだれと交流が有るか、そして過去ログなどが判断材料になる。記事単独で反応されることが多いだろうけれど。それでも、初対面の人と、違和感を通して観察され、関係性が生まれて交流出来ることもある。

国語力は書き手の国語力と、読み手の理解力や解釈も含めた。読み手がどう解釈するかは自由だけれど、後から記事を振り返って「そうは書いてない」と断言出来ることもある。

例えば、ネットに放たれた文章ではなく、一対一の親子の会話から、失敗例を出そう。

「切迫流産で入院した」と母に聞かされて、私は「男の子の方が多く生まれるというし、医療がなければ死んでいた命で、生きていちゃいけなかったのかな」と、小学生の時に深く傷ついたことがある。これも解釈だ。母は「お前は生命力と運に恵まれてるよ」と言ってくれたに過ぎず、母は「生きていてはいけない」というメッセージを伝える動機がないと動機や文脈を考えられるようになるまで、私は関係性が出来ていても、「あれってどういうこと?」と、問い直すことが出来なかった。幼くて国語力が未熟だった。

「切迫流産」という事実で、母が何を語りたいのか、受け取り方が下手だし、母も結論をきちんと話すべきだろう。日常会話の一コマだから、結論がぼかされ思い出話・苦労話として終わってしまった。

「男の子の方が多く生まれるというし」
⇨そう耳にした情報の出どころはどこで、科学的にどこまで正しいのか?

「医療がなければ死んでいた命で」
⇨病気がちの子どもだったから、ここは事実かもしれない。医療を受けられる状況で幸運だったという解釈ではいけないのか?

「生きていちゃいけなかったのかな」
⇨原則として、生きていていい命と、いけない命を区別する場面は少ない。この結論に至ったなら、過程が誤っている可能性が高い。

大人であれば、上記のように自分の解釈をチェックすることが出来る。小学生では出来なかったけど。

一対一で、お互いに関係性が出来ている親子でも、行き違いは起きる。まして、一対多の構図になるネットでのコミュニュケーションは行き違いが生じて当然だろう。

国語力以前に、関係性が重要になる。指摘は客観視のサポートだし、不快な解釈になった時に「あの人の価値観では、動機が無い」と思えれば、自分の解釈の見直しも、何が言いたかったのかの確認も行えるから。

国語力はもちろん大切で、言葉は選ぶべきだし、どう言葉を選んでも角が立つ内容なら、違う角度で表現できないか考えるのも、とてもいいと思う。そうしたことの積み重ねが、関係性にも良い効果を及ぼすのだろう。

だから言葉は選ぶことにしている。

👆ヘッダーは心音 / COCONEさんからお借りしました。

Thank you for taking the time to read this.