悲劇に対する2つの反応と、形而上学の調和
私はこの報道に触れて、60年頑張ったことを尊敬します。かつ、個人の努力で対処しており、事故を起こした会社や国が十分なことが出来ていないと思われる点が気になります。事故自体の予測は難しくても保険会社と相談することは出来たはずです。記憶障害で労災障害等級の1級と認定されても年金で生活出来ないのでは、何のための年金なのでしょう。でも、社会正義の話は横に置きます。
大きく分けると、悲劇に直面した時の人の行動は二つに分類できます。
例えば、家庭内暴力を次の世代に連鎖させずに、断ち切ることは、とても大切な挑戦です。僕の父は弱い人ですが、戦争に3回召集されて壊れてしまった祖父から殴られて育った生育歴はあっても、(私の母の支援もありますが)私ときょうだいを父は殴りませんでした。彼は自分の課題から逃げるダメな人ですが、ここは頑張ったと思います。
暴力を受けるだけで、悪意を向けられるだけで苦しいのに、本来無条件で味方になってくれる相手から攻撃されるのは「裏切り行為」と「役割の放棄」だから、物凄く苦しい問題です。結論を言えば、こうした様々な連鎖を断ち切ってくれたことの上に、僕らの安心できる日常があると思うのです。
論理的に考えれば、再発防止を進めるはずだけれど、誰かを苦しめたくなるのは何故でしょう? 一番分かりやすいのは「私が支配する順番だ」という、自分の強さの確認と報復の誤作動でしょう。
強い人は、他者を虐げなくても立っていられます。何かを欠いたら、立っていられないのは、弱いですよね?
承認欲求にも通じるのですが、遊ぶのが大好きな一才くらいの柴犬が、「褒めて褒めて褒めて撫でて褒めて」とまとわりつくのは可愛いですが、承認欲求がダダ漏れな大人は、扱い難しいですよね。
では、どうするか。
自分で確認します。
目標や品質を達成出来たかなどの目安で。強さも同じで、具体的に用いずに思考によるシミュレーションで確認すれば、他者に迷惑かけません。例えば、詰将棋のように、複数のシナリオを想定して、弱点がないか確認するなど。対して、脳内で、架空のサンドバッグを殴るなら、ジムに通ってボクササイズした方が効果的だと思います。シミュレーションの方法も、良し悪しがあります。
飛躍します。哲学で「神がいるのになぜ悪があるのか」を扱います。例えば自由意志など。この問いに、効果的な回答が出来るかもしれません。
一見、不備があるから悪があるという、言い換えに過ぎません。けれど、「悲劇を二度と繰り返すな」以外が不備であるとしたら、子どもたちにケーススタディをさせて、「人生には想定外の不条理な出来事が起きるけど、その時、あなたは文明を支えた先輩の列に加わることも、個人的な感情を八つ当たりさせることも出来るから、よく考えなさい」と教えたらどうでしょう?
そして、それを仕組みにします。社会に不備があることを前提としたNGOのような組織に、ナレッジが集約され、関係者や専門家を交えて再発防止策をシステム化し、さらに、そのシステムを一般の方が誰でも利用できるよう啓蒙します。
☝️国民生活センターに問題解決のリーダーシップの役割・権限・予算を足して、より中立の組織にしたイメージです。(NGOである必要は無いです)
この取り組みを数世代続けたら、悲劇の再発防止を重視する方々が一般的になるかもしれません。その時、抽象的だけど、「世界の悪意や悲しみの総量」は、今より減ると思います。
一般常識と形而上学を、うまくバランス出来るように思うのです。問題は、実現可能性でしょうか? みんなが望まないと、変えられない。
だから、そっと共有しますね。
個人の集まりが、社会。
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