信仰・思想・信念は個人個人が大切に築き上げたものだから、敬意を持ってそこには踏み込まずに書きます。
我々は、眠って起きるなら確認できますが、寿命を迎えて永眠すると、確認できないはずです。例えば、お葬式を済ませて火葬して10年経って、肉体を復元して「やぁ、死とはこうだよ」と論じた方はいないはずです。
赤ちゃんが歩けるようになり、学校に通い、大人になって……と、人は変化し続けます。寿命に向けた変化の一面が成長であり、季節が変わり、老いになるように思います。
では、老いとは何でしょうか?
理不尽です。若者時代に努力して獲得したことを手放すからです。
見通しが悪くなります。壮年期の全盛期の自分と比較してパワーダウンします。これは、不安だし不快なはずです。
気疲れします。儒教の影響や、面子、他者に迷惑をかけない倫理観や文化との葛藤を覚えつつ、家族や支援者の力を借ります。
無力感もあります。壮年期の自分のように公私で社会貢献出来ている手応えが持ちにくくなります。
そして、老化とは未知です。誰もが初めて衰えて、ランダムに少しずつ「私」が解体されていきます。
そんな老いとは人生にとって何でしょうか?
例えば健康寿命を保って自由を保つなど、終わりに向かう生き方は選択できるから、それは人生の終わらせ方でもあります。一大事業です。
人は歴史の始めから終わりまで、クローンが誕生しようとそれは私やあなたとは異なる存在のはずです。環境を含めて再現出来ないはずだから。駄菓子屋さんのおばあさんが、「またおいで」と柔和にお釣りを渡してくれたことが、何だか心に残っているのなら、それも含めて「環境」だから、極めて複雑です。
ユニークな存在だからこそ、残念に思うことの悩みは深いです。
では、どうしましょう? 私は、「晩節を汚さない」ことに焦点を当てると苦しいと推察します。「ねばならない/べき」と考える方向だから。
代わりに、人生を総括して「仕上げ」をすると位置付けるのはどうでしょう。表現や作品のような取り組みだから、創造的です。認知症やペインコントロールが必要など、何らかの理由がなければ、その方の出来る範囲で、その方の人生で成し得たことを振り返って解釈することができます。
このように高齢者が自由に取り組む価値を見つけることで尊厳を守れるように思うのです。
我々は全員持ち時間が限られており、寿命を迎える点は公平です。寿命の長短はあります。そこに、老いることは本質的に未知の体験だということを加えることは、人生の見通しをよくするように思えるから、多くの方に有益です。
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