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紛争、恋、不食、行間、物語の力、井戸の潜り方、満を辞してももちゃん登場。(岡田環さんのnote訪問記2021年1月-6月)

訪問記、第3回です。ももちゃんも、環さんにとっての物語は何かも登場するよ!

2021年1本目は旅暮らマガジン✈️から。

戦争は愚か、平和を祈っている、母国からの返信はいつもこんなトーンで締めくくられるのだけれど、私にはそれがわからない。家族や祖国を守るための流血することは、愚行なのか。ただただ、痛く、かなしい。それを避けるための政治ではないのか。外交ではないのか。祈っていても、平和は勝ち取れない。自然に訪れるものではない。対話に繋がる、代償は払われた。道は続く。
https://note.com/kikionatrip/n/n3cb9b182a967

このnoteは結びの部分が好きです。肝心な部分を引用して恐縮です。ことに、太字にした部分に強く惹かれます。

遠い国の紛争だから、よく知らない方が多いかもしれないです。私もそう。戦争になる以上、両国に言い分があるのは当たり前で、問題は「死んでも引かない」と愛国心に火がつく前に、殺し合い以外の選択を出来なかったことでしょう。彼らが愚かなのではなく、なぜこの状況に追いやられたのか、共に学ぶことが必要です。失われた5,000人の死者という、代償は大きすぎると思うのです。

旅暮らマガジン!🏞

ここからは2021年2月分。

環さんの描くヒロインは、時に妖精やエルフのようで。2人の視点が切り替わりつつ編まれる物語です。

その清浄で甘い酸素が、僕の身体を満たしてゆく気がしていた。赤い、イスラーム風のローブドレスを着ている女性が、微かな物音を立てて僕の隣席に着いた。深い茶の髪、薄い緑の瞳、透明な肌の色、一瞬。彼女が僕を見た。
https://note.com/kikionatrip/n/n3cf1e8c2fc07

学生時代に講師としてケイと出会ったニカの登場シーンです。

明瞭な言語で論理的にてきぱきと話し、凛としたポスチャーの背の高いその男は、目の前にいても実は私達を見ていなかった、魂がどこか遠くにあった。たくさんの死者と接したあとに、人間はそういう目をすることがあることを、そのときの私は知っていた。
https://note.com/kikionatrip/n/n3cf1e8c2fc07

環さんの描く男性は、聡明で清潔感があります。ケイが「死神」に取り憑かれている、あるいは激務でストレスを受けすぎていて、「この人放っておくと危ないな」と、見えて気づけるのがニカです。

人はたくさん生まれて、たくさん死んでいく。その明白な摂理を、現実に感じていたかった。出生の血生臭さと腐敗する死臭の、同じどこか甘い臭いの中で、やっと僕は僕の喪失と向かい合える気がしていた。
https://note.com/kikionatrip/n/n3cf1e8c2fc07

ケイの言葉を借りて、環さんのキーワードが現れました。

下痢もすっかり治ったころ、じゃあお礼に行きましょう、とニカがそのゲンノショウコを摘んだという野原に僕を連れて行って、その小さい花の草を僕に摘ませる。茎を手折るときの、ぷつんとした手応え。私の命を分けるから、あなたも生きろ、そう言ってくれている気がしない?ニカが、まっすぐに僕を見て言う。ケイはもうたくさんの草花の命を分けてもらっているのよ。緑の瞳がにっこりとする。
https://note.com/kikionatrip/n/n3cf1e8c2fc07

ニカはケイと議論してねじ伏せるのではなく、彼女の持っている異なる世界観でケイを受け止めることで、ケイの「死神」の憑き物落としをします。言い換えると、ケイの喪失にケイの持たないアプローチで関わります。

ぼくらはそれぞれ自分では手の届かないボタンを持っていて、恋愛の魅力の1つは、1人では対処出来ない点をケアしあえることだと思います。誰ですか、孫の手イメージした人は。心の中の話です。

心の傷や喪失を、適切に寄り添うことが出来れば回復を得られることが、歌われた作品だと思います。環さんだから書ける小説。

たぶんお坊さんの断食は、間接的に脳をいじってるんだと思うのです。自律神経を直接操作出来ないから、呼吸を用いるように。食べることをやめると、独特の透明感を体験するし、五感も研ぎ澄まされますね。
私は激しいストレスを経験して、「食べたくない」ではなく、「なぜ食べないといけないの?」は経験しました。お腹も減らない。

「アイスでもプリンでもいいから食べろ。あなたは、双極性障害だから脳に栄養が行かないと、そのことが原因で躁転しますよ」と、訪問看護の精神専門の看護師さんから、諭されたことがあります。

だから、摂食障害と診断されてないけど、ここに語られた不食の世界は理解出来るつもりです。作品で語られることは自然だし、娘の成長をこらえて見守るお父さんが、魅力的な人物で、心に残ります。

理解して見守ることの難しさも苦しさも、ぜんぶここにある。

後者、その表現の揺れ幅こそが、書き手の個性であり、行間であり、実存(個別的、偶発的な現実存在)なのです。
https://note.com/kikionatrip/n/n9df271c2fcc9

嶋津さんの「真夜中の哲学講義」に参加されたのですね。そして、環さんにとっての行間とは何かが語られていく。

私にとって、書く視点では行間は生まれてしまうもので、読む視点では読書の本質だと思います。音楽や映像と異なり、読書は自らの知識と経験の全てを用いて「再生・鑑賞」します。

だから身の丈でしか読めませんし、幼い頃から繰り返し同じ作品を読めば、年輪を確認するように、読み方が変化した自分と出会えます。そして、「パラレルワールド」とお書きになられた通り、各自で「読み」が変わります。だから、論文や法律書や技術書などは「行間」を狭くしますし、詩歌は文芸の中で「行間」を最大に与えるのでしょう。

「行間」は嶋津さんの専門の「対話」の余地かもしれません。書いてないことを好き放題読み取るのではなくて、著者と読み手の間に生まれる「場」を大切にするものだから。

その意味では、正解の読みは無くても、不正解の(望ましくない)読みは区別出来そうです。「場」からの逸脱が目安になるから。

単に番号だけが記された彼らの墓標に、再び名前を与え、その人生を(たとえ最期は無縁者の墓地に行きつくとしても)温かな目線でいきいきと鮮やかに描き出すことこそが、物語の意義なのだと著者エリフ・シャファクは語る。
https://note.com/kikionatrip/n/n82249a294874

引用した箇所は、環さんのテーマでもあります。ぜひ、noteを通して、環さんを通して物語が何を奏でたのかをご覧下さい。

TEDへのリンクも貼っておきます。エリフ・シャファクにとって良い物語とは何かが語られます。時間は20分弱。スピーチは英語ですが、日本語字幕もついてるので、ご興味のある方は、是非。

ここからは2021年3月の作品。

お名前は出てこないけど、嶋津さんですよね。環さんにどう見えたかと、環さんのスタンスの違いを語った上で、違いを乗り越えて面白さにしてしまうことが語られています。強い力は研鑽する期間が必要なことを、見抜いてる点に共感しました。

写真集note📷。映画になりそう。

環さんの恋愛観。他者の魅力的な点の描写から、いくつかのラブソングを連想しました。例えば僕は西野カナの世界が好きだけど、なんとなく坂井泉の世界(目線)と繋がりそうな気がします。(恋愛対象のどこを見てるかが)

猫や生き物が好きな方には、環さんの作品の中から、真っ先にお勧めする珠玉のエッセイ。「絶対死なせん」の構えで奮闘する、旦那さんが男前なんです。命に敏感な人、最高でしょう! 同時に、この作品は、岡田ご夫妻の抱える傷と悲しみも扱っています。

ももちゃん、小顔で瞳の大きな美人さんは、旦那さんに時々お風呂で丸洗いされるのを耐えて諦めを学び、お家で一番居心地の良い部屋を選んで、暑くなると「ママ、エアコンついてないみたい」と言いにくる、岡田家の家族になったのでした。

ももちゃん「ママ、わたしよりその板がいいの? 今なら、遊んであげるわよ」

ももちゃん「ママのこと、時々分からないの」

ここから、同年4月分。

環さんの方法論は、生活を時間で区切ることで大学や大学院に近づけてしまうことと、毎日出来ても出来なくても難題と向き合い続ける時間を設ける、やり方ですよね。前者は、分からないことをどうしたら理解出来るかの、環さんのやり方のはず。環さんには、このやり方がとても合ってるのだと思う。Googleのサービスを使い倒してるのもいいですね。

「井戸」の潜り方、私はどうしているだろう。「修羅」を言葉にして、共存可能にしてしまったから、集中力と意識で、周波数を日常のレイヤーから修羅のレイヤーへ変換する気がします。必要があれば、レイヤーが切り替わるけど、いつでも行き来出来るわけではない、イメージ。

👆どう言語化したか。今の私の力では、踏み込むとヤバイと思う領域以外は、整理を済ませてるつもりです。雰囲気から、心の中は体育館くらいのスペースを片付けたと認識しています。コインや針を落とす音が聞こえる距離のイメージ。

静けさ、つまり孤独で安全を確保しています。

恋愛小説かな? と、読んで、孤独について語られていることに気がつきました。命の危機のある孤立ではなく、信頼できる人との関係性を育ててあるからこそ、孤独の深みにダイブ出来るのかもしれませんね。

以下は同年6月の作品。

私自身と、私がこれまで出会った多くの人々が受けた、「不特定多数」の「対抗するすべを持たないもの」としての傷を死を、私はひとりひとりの個人的な物語として記録したい。その無下に奪われた生命や尊厳や安らぎを、回復できることはないけれども、 共感できる痛みを伴った記憶として残しておきたい。それをいつかあなたが読むために。
https://note.com/kikionatrip/n/n6e10a082da37

環さんが「憎悪」を向けられることよりも恐れることと、「物語」を通して成し遂げたいことが語られます。顔を奪われた死者の名前を取り戻し、共感可能な物語にすることは、エリフ・シャファクの仕事と同じ方向性ですよね。

僕らは何となく殴る蹴るが辛くなった。相手が人になった。
https://note.com/karasu_toragara/n/n759ed229a356

レッテルやイデオロギーによって分断され、想像する余地も奪われるけれど、環さんが「名前を取り戻す」ことで、読んだ人は侵食されていた想像力も取り戻すでしょう。想像力を保てる人を増やすことが、教育の力だし、テロや反知性に対して暴力以外で立ち向かう術ですね。

山羊メイルさんの作品を引用しました。相手が人になれば、想像力をOFFにするようなこと、出来ないから。名前を取り戻すのも、想像力も、私の母方の祖父の口癖の「家族があるだろうに」の、それぞれの心にしっくりくる言葉を見つける力がある。他者自体の痛みに加え、その人に関係する人を六次の隔たり(Six Degrees of Separation)のようにイメージ出来たら、残酷なこと、私は行えないです。

かつ、見知らぬ誰かや統計上の数字から、共感を経ることで関係性を得た誰かになるから、無関心でもいられませんね。

環さんのnote訪問記、第三弾です。

環文学にとっての核心が語られるのを目撃しました。

それでは、また。

👆ヘッダーはこげちゃ丸さんからお借りしました。

Thank you for taking the time to read this.