他人のために、どこまで自粛できるか?
某ウイルスの影響で世界中が自粛ムードになり、一か月が過ぎた今日のこの頃。いい加減、外に出たい方も多いのではないでしょうか?私もその一人です。
これまでは「危険だから家にいよう」と思えていたのが、「死んでもいいから外に出たい」へと変わってきました。
私の中ではとっくに、自粛の意味なんか失っています。だって私は自分が死んでもいいと思っているんですから。こんな死んでいるのか生きているのかわからない毎日を送るくらいなら、リスクを負ってもいいから明日死んでも後悔のない今日を生きたいのです。
今までは、よっぽど生きることへ執着がない人、または失うものが限りなく少ない人でない限り、政府の方針に従ってできる限りの自粛をしてきました。
しかしこれからはそうはいかないでしょう。どこまで他人のために「自粛できるか」がキーポイントになると思われます。自粛のメリットとデメリットの均衡点がそれぞれ違う中で、どこまで他人のために自粛できるか。
例えば、外出したい若者と人生においての時間の感じ方は、1/年齢 だとよく聞きます。だから公園に集まっているこどもたちを批判する権利なんて、お年を召した方々にはないと思うんです。お年を召した方にとって、これまでそしてこれからコロナで犠牲になると見込まれる1年間は人生において1/60です。しかし10歳の子供にしてみればこの期間は1/10です。
致死率だって、かなり低いです。短い期間の自粛ならまだしも、ここまで長くなってくると、若者にとっては、自粛によるメリットよりもデメリットのほうがどう考えても大きいのです。
人間であることを放棄するような発言になってしまいますが、国益のことを考えた際でも、これから生産より明らかに消費する側のためにいつまでも教育をとめるのも合理的ではないでしょう。
ここでは均衡点の違いの例として、若者と老人を提示しましたが、自粛のメリットとデメリットの均衡点は、年齢にかかわらずみんな違うと思います。
「自粛しろ!」という批判ではなく、「私のために自粛してくれてありがとう」という感謝の言葉をお互いにかけあうことが、一番少ない死人の数でコロナに勝つ方法なのかもしれませんね。
死人が少ない=犠牲が少ない なのかはわかりませんが。
さいごに。
みんな自粛してくれてありがとう、そのおかげで今日も私は元気です。私ももう少し、頑張ってみようと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?