見出し画像

影響を受けて生きることで幸せがやってきたりもするんだ

〜雑記帳〜
ということで、思いつくまま、喋りたいままに。
結論はない。
「誰に向けて」もない。
時々昔のことが何の拍子か湧き上がってくるから、書くだけ。
きっと五十年てこんなんなんだろな。
(書き終わって、6300字超えてる。暇な時間を潰したい人で、いろんな意味で忍耐強い人にしか勧められない)


大きく影響を受けたのは、THE ALFEE さんとGLAYさん。

この2バンドがいなかったら、人生の選択は間違いなく変わってるし、もっと捻くれた人生歩んでるか何にも考えない人生送ってるか、、今の自分から見て「こんなふうになりたくないな」と思うような人になってたんじゃない?

片田舎で生まれ育つと(40年も昔だからさ)未来って自分の知ってる社会で暮らすしかないと思うわけで。
地元の高校卒業して、ちょこっと仕事して、結婚したら主婦になって…みたいなさ。
勉強なんてしなくていいから、お友達がいっぱいいてお家のお手伝いして…みたいな。

親は私に中途半端な期待をしてたのね。女だから高学歴にはしたくないけど、たぶんこの子は売れ残るから何か手に職は付けさせておかなきゃいけないって。(最終的に老後の面倒も見させようと考えてたのだろう)

ところがさ、小さい時からなぜだか親の考える枠からはみ出まくりな子で
田舎にないものばかり欲しがるわけですよ、
幼きアタマが深く考えもせずに次から次へと。
さらに変な目立ちたがり屋、というか、自分は表に出たくないけれど成果物と効果は目立たせたいという。
例えば、小学一年生の国語で、お友達に手紙を書きましょうってあったんだけど
(今もあるかな?かえるくんとがまくんが出てくるやつ)
だいたいさ、仲良くしてねとか遊ぼうねとか微笑ましい内容を書くじゃない?
国語の単元の目的は、手紙を通じて文字を書けるようになるとかその辺りなんだから、内容なんて薄っぺらでいいのにさ、、、
そう思わないんだよね、この人。
『せっかく書くんだから、楽しんでもらわなきゃいけない😤』と、その当時のテレビコマーシャル(笑いを誘うタイプが多かったのね)を羅列しながら書き上げる暴挙を。
それがただ友だちに届いて笑ってもらったら、
チャンチャン♪で終わるはずだったのにさ、ああいうものは学級通信に載るんですね…

ええ、メタクソ家で追及受けました。なぜこんな作文を書くのか?と。一緒に遊ぼうねとか仲良くしてねと書けないのか?と。

でもさ、大好きな友だちには笑っててもらいたいじゃない⁈
楽しい気持ちでお家に帰ってもらいたいじゃない?
そして、また楽しいことあるかも?って学校に来てもらいたいじゃない?
そしたらさ、楽しくて笑えること書かなきゃ…って思うじゃんねぇ…ね?
…たまたま6歳のアタマの限界が、テレビコマーシャルを羅列するところまでであって。
(今にして思えば、枷がなくなった高校時代、ラジオ番組に電話かけまくってた(実家出ておビンボーさまだったから、ハガキより電話の方が安かったのよ、まだ3分/10円だったし、採用だったら番組から電話かかってくるから電話代気にしないで喋れるし)ことの萌芽だね)

だいぶ飛びすぎた…自分は目立ちたくないのに、成果物と効果は目立たせたいって続き。

それでも夢物語で終わらなかったのは、THE ALFEEさんのおかげですよ。
幼きアタマもじわじわとわかってくるわけですよ、才能は一部の人にしかないし、それはどうやら自分にはあたらなかったんだなと。
片田舎でちょこっとばかり成績が良くても、成績よりも気立てが良くて朗らかで可愛げのある子の方がうんと評価が高いって。

小さな頃から文字が大好物すぎて、幼稚園入る前に親に30巻の百科事典セット買わせて、そのおまけについてた「子どもへの声の掛け方」まで読んで親にダメ出ししたりとか(この百科事典には後日談があって、この30巻は小学1〜3年生向けで、その先の4〜6年生向けのは買ってもらえなかったんだけど、同級生のお家にはあったのね。もちろんお借りして全て読ませていただきました。親にはヨソんちの本まで手を付けるとは‥と白い目で見られた笑)
カール・セーガンのCOSMOS読んで、壮大過ぎる作文を書いたせいで(当然ながら本人は無自覚)、参観日後の懇談会で何か言われたらしい親は帰ってくるなり「いったい何を今度は書いたのか?」と。「原稿を出せ!」と。
そういえば、その原稿返ってこなかったんだよな。。どこ行ったんだろ…他のお母さんたちにもこれは評判良かったのにな…


戻ろ‥それでね?小学校高学年、中学校あたりになると、ここに居続けたくないけれど、いるしかないのかな?と思い始めるわけです。
現実に学校でも男女間で掛けられる言葉が変わってくるじゃないですか?

女子は!
勉強はほどほどでよい
見た目が大事
気配りできなきゃ
人を立てて控えめに
愛嬌を振りまけ
仕事より家庭を
早く結婚して子を産むべきetcetcetcetc

今書いてもクソだなw

学校は頼れないことが明確になったことだけは感謝してる。

ちょうど中学入学時に転塾できたこともあって、私自身は高校で出て行ってやろうと虎視眈々と(親はそう思ってなかったみたいだけど)

それでも内申握ってるのは学校。同じ点数なら男子の方が上(冗談じゃなく、相対評価だったからそういうことが起きたんだよ?先生がそうしたと言ったもん)。
そしたらやることは一つ。
その上の点数取るだけ。

塾はだから幸せでしたよ。成績別で分けられてて、性別関係なく未来の進む道を見せてもらえて。
ちょうどその頃だったの、中1の秋にMy Truthが出て、中二の夏に19 (nineteen)が出て。
で、その秋にコンサートに行く、と。

夢は本気で追いかけなきゃいけないことになったし、本気で抱きしめられる夢が掴めるんだと信じたので(You are just 19じゃなく、14だったけどね)全員見返してやると、思春期反抗期全開で😆

小学校高学年から中学卒業までって、世の中もものすごく動いたの。
プラザ合意、バブル期、昭和から平成へ、ベルリンの壁崩壊、ペレストロイカ…
自由って言葉がたくさん叫ばれた時代。
戦っていけば、拳を掲げていけば、きっといいことがたくさん起きるのだと思ってた。
しかも私は第二次ベビーブーム世代。
親から墓に入るまで競争だと煽られ、強さは力💪と刷り込まれ、学校では雑に扱われ、未来は努力すればよくなるものだと信じて育った。
この頃のTHE ALFEEさんの曲だって、立ち上がれ、あきらめるな、信じろ、と言ってたし、華やかな曲も多かった。(高見沢さん自身がそうだったとは思ってないよ。コンポーザー・プロデューサーとして発注に応えようとするとこうなったんだと思う)

他のアイドルにもバンドにも目もくれず、ただU.K.Breakfastを明けても暮れても聴き続けて、親がいない時に居間のステレオで白夜と19(nineteen)を爆音で掛けて近所に布教しようとするヤバい子‥🤪

ヤバい子、ある日思いました。楽器はダメだけど、詞というか言葉に思いを乗せて伝えられるようになりたいなぁって。
ずっと歌詞カードを眺め続ける日々、言葉だけで映像が立ち上がり、風の冷たさや雑踏の音が聞こえることに感動🥹
(当時は曲も頭の中にすでに入っているからイメージしやすくなってるとは気づきもしなかったけれど)高見沢さんのように書けるようになりたいと思い、

また別の日に思いました。音楽番組、今よりもたくさんあったからね当時は。ランキング番組以外にも新曲が出るたび、特番のたび、出てくれてました。
メリーアンの頃から気付いてはいたけれど、どんな場面でもにこやかにお話ししてたのは坂崎さん。新曲の場合、司会の人は本当は高見沢さんに訊きたいんだけど、当時の高見沢さんはあまりお話ししてくれなかった。。
それを、まず自分が質問を受けて概要を伝えた上で、ここがポイントだなというところを坂崎さんから高見沢さんに質問するような感じにすると、高見沢さんも坂崎さんから訊かれてるから緊張せずに答えられるし、司会者の人もお仕事できたということでホッとしたお顔されてるし…で。
メリーアンで初めてベストテンに出た時から、笑顔に撃ち落とされ、シンデレラで沼にズブズブ沈められた坂崎班ではありますが、人当たりとか周囲の観察とか角を立てずに断る方法とか、高見沢さんとは違う努力の仕方とか、モノの見方とか、とにかくあれもこれも、今も変わらず、こうなりたいと思う人で(で、ホントは知っている。なれないからこそ憧れが強いことを。私の本質は、三人の中で無理繰り選ぶなら高見沢さんが近い)

で、時々坂崎さんをもってしても高見沢さんのご機嫌が斜めの場合があって、そんな時坂崎さんはあえて深追いをしない。まるで何もなかったかのようにスンとしてる。ただ、雰囲気としては何ともいいがたい空気で。
そんな時、桜井さんがおちゃらけて空気を緩ませてから歌の準備に入る形を何度か見た。
坂崎さんから桜井さんに何か合図が出ていたとは思えないので、咄嗟にやってたんだろうね。
当時は生放送ばかり。内心どう思われていたのかはわからないけれど、丸く収めようとしていたように感じたの。
それから桜井さんがお話しされる時、お二人よりはゆっくりとお話しされていて(決して遅いんじゃないのよ、あの当時二人はめちゃくちゃ話すスピードが速かった)とぉっても!聞きやすかった。
これは今も意識している。大人数に話す時は特に。遅すぎるかな?と思うくらいのスピードで
話すくらいでちょうどいい、軟口蓋をしっかり動かして話す(口を大きく開けるから大きな声が出るわけではない)

生き方から社会スキルからたくさん学ぶことだらけで、影響受けまくりで。

たださ、自分一人だけ上手く生きていけばいいんだったらこれでよかったんだけど、また私はいろんなものにぶつかっていくんだ。

THE ALFEEさんの沼から出かけてあちこちの沼を見学して、おぉーっと思って浸かったのがGLAYさんとこの沼だった。
今はGLAYさん4人とも曲作られるけど、当時はTAKUROさんのみ。しかも、ノンフィクション要素がとても高く、出身は北海道で年齢は3つ違い(THE ALFEEさんとは20違うからね)。見える世界がとても身近で、どれもこれも共感が過ぎる。
一緒に笑って一緒に泣いてくれる曲たちが並んでて。
ちょうど、新社会人からちょっと経った頃。バブルはとうになくなり、氷河期と呼ばれた時期。
就活は難航を極め(男女格差が募集要項にストレートに出てたんだよ。女子は自宅から通えることとか、女子の給料は男子の半分とか、女子は3年しか雇わないとか、面接までいっても、結婚したら辞めてもらうとか)何とか内定取れたところから、すぐに働いてほしいと言われて11月から学校休んで働き始めた(学校側も今後の求人が大事なので許可しちまったんだよ。12月半ばでそこ辞めて(食品会社の品質管理だったんだけど闇を見て辞めた。たまたま学校の先生も様子伺いのために来てくれた時に実情を見てくれて辞めても大丈夫だからと言ってくれた)、もう一度就活して年明けから別の会社で働き始めた😆)。
ところがさ、学校と違って、会社って男尊女卑だわ年功序列だわで最下層扱いなわけで。
夢なんて語ることは許されず、仕事の手を動かすのと返事以外はジィッと黙ってなきゃいけないし、ちょこっとでも仕事失敗すると始末書書かなきゃいけないし(最初の年、冗談じゃなく毎週始末書書いてた、だから50枚以上)、直属の上司は庇ってくれないし、私は女だからされたことはないけれど、暴力が否定されない所だったし、飲み会はニコニコ笑って手を握られて、血糖上昇抑制剤を飲まされないように穏やかに話題を切り替えながら自分の身を守らなきゃいけないところで。(何言ってるか分からなくていいよ。私だって自分がこんなところにいたと認めたくないんだよ)
まあ辛かったよ。人はどんどん入れ替わるし、誰も味方じゃないし(密告なんて日常だった)、そんな所にいるとね、夢どころか逃げる(辞める)って決断もできなくなるんだよ。
ただ最初の年から異動願いは出してたんだよね、実験がやりたくて。
同じ会社なのに、部署違うと全然違うのよねー、向こうはすごい楽しそうだったし。忘年会とか合同でやると、学校のクラブ活動か何かですか?って思ってた。向こうは向こうで、お通夜帰りの人たちが混ざってるような感覚だったみたい。。
2年半耐え続けて、私の最下層生活は人事異動という名のもと終わりを告げたんだけど、学校のクラブ活動とお通夜の帰りじゃない、また苦しかったの。。説明したって分かってもらえないのよ、そもそもここに始末書という概念はないし、喋ったら怒られるなんて刑務所か?と。
親切にしてもらっても、裏があるんじゃないかと警戒するし、もうね野良犬さんの保護と同じよ。その心の支えがGLAYさんだった。
TAKUROさんの書く詞は、「あなた」が主人公で、それを支えていくよというものが多かったから。その上で思いやりや人の愛を称えていたんだよね。
集団の中で生きていく術が詰まっていたし、人に心を寄せて、受け入れることはできなくとも受け止めることができるようになったのはTAKUROさんのおかげで、夢をまた持つことができるようになったのはGLAYさんのおかげで。
就職した年って阪神淡路大震災があって、地下鉄サリン事件があって、異動してからミレニアムがあって、911があって。
人の心と自然環境に目がいくようになって。
一人称が強いままでは生きるの難しかったと思うんだ。
この頃は詩を書き続けていたけれど、もう似たようなのは書けないな。自分を打ち付けて書いてて、仕事から帰ってきて詩を書いてまた仕事行くような、殉教しそうだった。

そしてそして。子どもを育ててるうちにGLAYさんのところからも抜け出ることになっちゃったんだ。
人生の歯車の大きさが変わると、合わなくなるんだよね。しょうがないこと、優先するものが変わればそうなると今はわかるけれど、嵐の真っ只中はそんなことわからないし、終わりがあると言われたって、今何とかしてくれとしか思えないし、そんな状態だと誰にも言えなかったし。ずっと卵の殻の中に子どもと入っていたかった。

ようやく近年、またGLAYさんは元気かなーと思えるようになって、
またライブ行こう!という気になって、
そしたら活動に制限が加わるようになっちゃった。
そしたらさ、YouTubeにTHE ALFEEさんいるじゃない、歌も歌わず😆kitchenに。
それ見た時に、あ、帰らなきゃと。夕方になったから家に帰ろ、みたいな自然な感情でそう思ったの。
そう思ってから約1年。
今は人に思いを寄せるより、自分をまた立ち上がらせて、失敗してもやり直せばいいのだと、人生なんて思い通りにならなくて当たり前、それでも諦めずに頑張っていけばいいのだと思えたということは、沼に帰ろうとした勘は正しかったのだと思う。
あの頃より周りを見ることも周りを思いやることもできるようになったんじゃないか、その上で自分のやりたいこともできるようになったんじゃないかと。

50周年と30周年。どちらもチケット争奪戦は必至。もしかしたら、1つも行けないかもしれない。そうなったらとても残念だけど。
心の中でしっかりお祝いをしようと思えるくらいには大人になった🤣
たくさん幸せをもたらしてくれたじゃないかと思えるんだ。憧れであり目標であり、きっとずっと手が届かないまま私の人生も終わりを告げるんだろうけど、その日までやれることをやっていこうと思うんだ。
それってめちゃくちゃ幸せなことじゃない?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?