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悟りの境地

 私は禅に興味を持ち、鈴木大拙先生の「禅による生活」を座右の書として愛読しています。
この「禅による生活」を読めば、悟りの境地がどんなものかがわかるかと思います。
しかし、この本を真に理解するためには、たった一度でよいのですが「空」なるものを体得する必要があります。
「空」なるものを体得する修行法はいろいろあります。ここでは、私が「空」なるものを体得した経緯、体得してわかったことなど、お話したいと思います。
禅に興味を持ち、「空」を体得し、悟りの境地に達したい方は参考にしていただきたいと思います。

 ❶「空」の体得

勤めていた会社には車で通勤していましたが、飲み会・出張などの時は電車で通勤しました。
電車通勤のときは、帰りがいつも夜遅くになり、駅から自宅まで20分程、とぼとぼ歩いて帰りました。
帰り道は灯りも少なく暗くて、車もほとんど通っていなかったので、いつもシーンと静まり返っていました。
ある日の帰り道、暗い夜道を歩きながら「暗闇とは何か」と問いかけました。その日から、帰り道では「暗闇とは何か」と問いかけるのが習慣になっていました。
そして、禅に関心を持っていたことで「暗闇とは何か」との問いかけが、いつの日か禅公案となっていました。
30年もの長きにわたって「暗闇とは何か」と問い続けましたが、答えは見つかりませんでした。しかし、ついにその答えが姿を現す日が訪れたのでした。
その日は「暗闇とは何か」を問うのを止め、ぼんやり暗闇を見ながら帰宅していました。
細い路地の奥に見える二階建ての屋根の上の暗闇を見ていた時、暗闇の背後に一瞬「何か」が観えたのです。
次の瞬間「何か」の中に、暗闇が姿を現すが如く、見えたのです。
すると摩訶不思議、周りの街灯・家々もこの「何か」の中に浮かび上がるが如くに見えたのでした。
このとき、何か摩訶不思議な光の中に包まれているような気持ちになり、これが、これまで問い続けてきた答えであることを確信しました。
次の瞬間、これだという思いで、喜びがあふれてきました。
この時の体験は今もクッキリ思い出すことができます。
この体験は私にとって人生最大の大事でした。
2013年7月1日の出来事でした。

❷空とは如何なるものか

この「何か」は言葉で表現しづらいですが、あえて私流に表現するなら「からっとした拡がり」ということです。
この体験の後わかったのですが、この「からっとした拡がり」は仏法における「空(くう)」でした。
禅画の一円相はこの「空」を表現したものです。

私は「暗闇は何か」と30年の長きにわたり問いかけたことで「空」が体得できたのでした。「空」を体得したことで本題の「悟りの境地」が何たるかがわかりました。

しかし、「悟りの境地」は言葉で説明しても、ほんとうに理解してもらうことは困難です。
何となくでもわかってもらえればいいと考え、以下話を進めます。

百冊・禅の本を読み「空」を概念的に理解しても体得したことにはなりません。お酒の味は飲まなければわかりません。
同じようにこの「空」は体得しなければわかりません。

盤珪禅師は「一切事は『不生』で整うのに、今まで知ることができないで無駄骨を折ったことよ」といったらしいです。
この言葉を借用すると「一切事は『空』で整うのに、今まで知ることができないで無駄骨を折ったことよ」ということになります。『不生』と『空』は同じであり、あらゆる公案の答えであります。

私は「空」を体得(見性)したことで、心は自由・自在となり、無意識の意識、無分別の分別が自由に働き、物事を一元的に見るようになり二元的分別思考による迷いがなくなりました。

この見性経験により、「悟り」を開くとは、心の中が「空」であることに気付くことであることが分かりました。ただ、それだけのことです。
「公案」はどんなものであっても、その答えはみんな同じで「空」を体得することです。
「公案」の答えを徹底して求めると、何かのきっかけで「空」に気付き、「空」が観える時節が訪れます。
そして、一度「空」が観えれば、あらゆる存在がクッキリ見えるようになり「禅」卒業であります。

私の観ている「空」と他者(覚者)の観ている「空」とは比較のしようがありません。
「空」は観える人にはすぐ観えますが、観えない人は一生修行を積んでも観えないでしょう。
「空」が観えれば哲学も宗教も人間学もすべて手に取るが如くわかります。(生・死、宗教、自由、安心等々)

一般に禅は高尚なもので修行を積まなければ理解できない難解なものと思っていますが「空」さえ観えれば禅の何たるかがすべてわかります。
禅・悟りは、お坊さんだけのものではありません。
悟りを開いたからといって日常生活は何も変わりません。
ただ、すっきりした自由な気分で生活ができるようになります。

私は長年「自由・自在とは何か」と問い続けてきましたが納得のいく答えは得られませんでした。
しかし、悟りを開いたことで「空」の域の中で、自由・自在に思いを巡らせることができるようになりました。「空」の中に自由・自在があり安心があることが分かりました。
どこにいても「空」を意識することができれば、常に清々しい心持ちになれます。清々しい心持とは、大空のように遮るものがない「自由な気分」であります。

 人は自由に思考し行動し、楽しんだり、喜んだり、悲しんだりして生きています。
このように自由に思考し物事を瞬時にとらえ行動ができるのは「空」の中で無意識に働く「般若」の力によるものであります。
人の心は「空」であり「空」を意識しなくても「般若」は自由に働きます。
人々がみんな大いに喰い、大いにしゃべり、大いに楽しむことができるのは「般若」の力によるものであります。
曼荼羅は一人一人の人間が「空」に住し「般若」の力により自由に生きている姿をうまく表しています。
覚者は欲で満ちている現実世界に曼荼羅を観ます。

ほとんどの人は「空」の中に生きていますが「空」には無頓着であり意識することはありません。「空」は体得して初めて意識できるようになります。

 一般的に人は自分の側に心をおき対象に働きかけます。自然を見て自然に働きかけます。これは物事を分別してとらえる二元論であり頭の中でドンパチが始まります。ほとんどの人は対象の側に心をおくことはしません。
しかし、「空」を意識し対象の側に心をおくことができると、直接、対象が観え一元論で物事をとらえることができ、二元論のドンパチは起こりません。

私の場合、日常生活の中でほんの気持ちだけ「空」を意識すれば心が「空」で満たされます。三分程でも座禅をすれば「空」の力(透明感)は増します。
私にとって三分間の座禅はラジオ体操のようなもので一日すっきり「空」の中で過ごす上での準備行動に過ぎません。
座禅をすると「空」で満たされます。しかし、座禅をやめ、日常生活に戻ると「空」が消え去る。これではダメで座禅をやめても日常生活が「空」で満たされていなければなりません。
このためには一度「空」何たるかを知っておく必要があり「空」の相を味わっておくことが肝要です。
 
【空の相】
0、∞、無意識の意識、無心、絶対現在、絶対の一念、本来清浄、如如、無所住の心、無所有の心、無住心、無着の念、無念、一心、涅槃、般若、真観、清浄観、大円鏡智観、慈悲観、不生、光明、等々。

私は「空」を体得したことで、「空」の相を味わうことができます。
「空」の相を味わうことは禅意識を高揚させ「空」を進化させるために必要であります。
しかし、「空」の相を味わった後はすべて頭から消し去らなければなりません。これらの相にとらわれると頭でっかちの坊さん、学者さんになってしまい、二元論の混乱の中に落ち込む危険性があるからです。
味わった「空」の相は消し去っても心の中に残っています。
「空」のパワーを最大限に発揮させるには相にこだわってはなりません。

 人は皆、「心」は「頭の中」にあると思っていますが実際は「この世」が「心の中」にあるのです。この世に存在する物体、現象、概念等は有限ですが、心は「空」であり無限であります。
覚者は「空」という邪念をもって生きていますが、凡人は「分別」という邪念をもって生きています。

この世に存在する物体・現象は有限なものであります。
有限なものは無限なものにより有限なのであります。
「空」は無限であります。

日常生活の中でも意識して頭を「からっぽ」にする習慣をつければ、座禅をしなくても「空」がわかる時節はきます。
禅を極めた人は「空」の境地を以下のように伝えています。

①   中国禅宗の開祖達磨大師は悟りの境地を 廓然無聖(かくねんむしょう)という一言で表しています。この意味は、からりと開けた悟りの境地においては、もはや捨てるべき迷いも、求むべき悟りもないということです。
②   鈴木大拙は悟りの境地を0=∞と表し、「空」を「何もない無限に広がる空間的心」として表しています。
③   宮本武蔵は五輪書の空の巻で「心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよいの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也」と言っています。五輪書は「心は空也」で終わっています。

 人は多様な物を見て暮らしています。覚者の「心」は多様な物を透過し「空」を観ます。この「空」は雲一つない大空の如くであり、「空」の中で「心」は鳥の如く自由に羽ばたきます。この「空」を観ることが見性(悟ること)であります。

鳥は禅に生きており大空を自由に飛びます。しかし、大空を意識していないため禅によっては生きていません。人も禅に生きており「空」の中で生活しています。
しかし、「空」を意識していないため禅による生活はしていません。

 隻手音声(せきしゅおんじょう)
これは白隠禅師が創案した禅の代表的な公案の一つであります。
禅師は言いました。隻手声ありその声を聞け(意味:両手を打ち合わせると音がする、では片手ではどんな音がしたのか)
この公案の答えは「空」であります。
「両手で打つ音は何か」は「空」により「両手で打つ音」となります。
「片手で打つ音は何か」は「空」により「片で打つ音」となります。
「空」が観えれば「両手で打つ音」はもちろん、「片手で打つ音」も聞こえます。
私には「両手で打つ音」はパチパチと聞こえます。「片手で打つ音」は音なしの音が聞こえます。

 人間社会は多くの欲で溢れています。
三大欲求(食欲・性欲・睡眠欲)の他、物欲、金銭欲、知識欲、自己向上欲、名誉欲、自己顕示欲…があります。
欲があるから楽しみ・苦しみ・悲しみが生まれます。
欲がなければこの世はつまらなくなります。
欲があるから「悟り」も開けます。

覚者は「空」を意識し禅に生きています。
覚者は無限なる高次元の欲(無欲)がベースあり、ちまたの様々な欲を楽しんでも欲に支配されることはありません。
ましてや人を不幸にさせるようなことはしません。

何かに秀でるにはそのことに精神を集中して一生懸命に努力しなければなりません。がむしゃらに努力するのもいいでしょう。
覚者は「空」に住し、自由な気分の中で努力します。このとき努力は楽しみとなります。
茶道の目的は茶室の中で「空」に住することにより精神を修養することであります。

「空」に住すれば自由な気分で趣味を満喫することができます。
私の趣味はマジック、ゴルフ、抽象画、真理追究、将棋等であります。
これらの趣味のレベルアップを図ってきました。
「空」を体得したことで自由な気持ちでマジックを演じ、抽象画を描き、真理を追究することができるようになりました。

震災などで家族、知人、家屋等を失うと失ったものの大きさに応じて「空」も無くなります。
大切なものを失うと「空=心」は希薄になります。このとき絶望感が人々を襲いうでしょう。しかし、絶望感は永遠には続きません。
時間が経つと新たな出会いが生まれ「空」の密度は次第に増し元気も取り戻してくるでしょう。
すべては時間が解決しますが「空」を体得していれば自由な気分で早くに立ち上がれるでしょう。

 宇宙空間は私が生まれる前から存在している有限なるものであります。
しかるに、私が今観ている「空」は0であり無限であり、過去・現在・未来を超越しています。
この「空」は「心」であり本来の自己であります。

父母未生以前の面目がここにあります。

「空」の無限を意識したとき、生と死は一瞬に現れ消え去る流れ星の如く美しく、そこには安心(安「心」)があります。
私が見た「からっとした拡がり」は「空」であり「心」そのものでした。
私は暗闇の中に心の中を垣間見たのです。
この体験を通して。この世の中が「心の中」あることを悟りました。

人は皆、「心」は「頭の中」にあると思っていますが、実際は「この世」は「心の中」にあるのです。

私は「暗闇とは何か」と問うことで悟りを開きました。
「暗闇とは何か」は悟りを開くための公案として使えます。素晴らしい公案を発見したと自負しています。

禅に関心を持ち、悟りの境地に達したい方は、夜静まったところで暗闇を見ながら「暗闇とは何か」と問い続けてください。いつの日か、暗闇が姿を現す時が来ます。悟りの瞬間を味わってください。一度この瞬間を経験すれば禅卒業です。

最後に「空」「心」は5次元世界にあります。このことについては別の機会に話させていただきます。

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