紅い花、象牙の鉢植え

○長い眠りから目覚めると、そこにはいつもの見慣れたリビングの天井。窓から差し込む眩い夕日の光が、寝起きの眼に突き刺さる。光に慣れない眼をこすりながら、俺はあることに気付く。


俺「俺はなんで、こんな所で寝ているんだ?」


○自分が先程眠りに落ちる前の記憶だけが、頭からすっぽりと抜け落ちているのだ。俺は寝付く前のことを思い出そうと試みた。しかし_。


俺「痛ッ」

 

○どういう訳か脳裏に閃光の如き光が走ると同時に、激しい頭痛に苛まれた。諦めずに何度も思い出そうと試みても、結果は同じ。頭に激痛が走るだけで何も思い出せない。


「はぁ……はぁ……、俺は一体……どうしてしまったんだ」


ドア(ガチャリ)


○突然、玄関の扉が開く音がリビングに響いた。


俺「もしかしたら、あいつが帰って来たのか」


○その音で俺は、開いたリビングの出口から玄関へと歩みを進める。


妻「貴方、ただいま。愛しの妻が今、お仕事から帰りましたよ」


○予想通り、丁度妻が仕事から帰って来た所であった。


俺「おお、丁度よかった! お前、俺が寝る前に何があったか教えてくれないか?」


○だが、妻はまるで俺を無視するかの様に、そのまま真っ直ぐに廊下を進み、リビングへと歩みを進める。


俺「おい! どういう事だ! 折角亭主がお出迎えに来てやったというのに、無視をするとはどういう了見だ!?」


○俺は、リビングへと真っ直ぐ入っていく妻に大声で怒鳴り付けた。だが妻は、リビングの扉を閉めたっきり、まるで俺の声が全く聞こえませんとばかりに無視をしたのである。込み上げてくる怒りをぶつける為に、俺はリビングの扉を思いっきり開けんとドアノブに力一杯手を掛けようと試みた。だが______________。


俺「は?」


○どうしたことか。ドアを開けようとしても、俺はドアノブに手を掛けることが出来ない。まるで、そこに何もなかったかの様に、俺の手はドアノブをすり抜け空を掻いた。


俺「どういうことだ!? 何故ドアノブに触れられないんだ!? 痛ッ!」


○そうこうしている内に、また先程のような激痛が脳内を走る。


俺「クソッ、またこの頭痛か……ん?」


○頭を抑えながら扉を睨み付けると、扉の向こうから何やら声が聞こえてきた。俺はその声をもっとよく聞くべく、壁に耳を当てる。


妻「あの頃の貴方ってば、いつもタバコの匂いと臭い煙を周囲に撒き散らせていましたもの」


俺「あの頃だって? 俺は死ぬまで喫煙者だ。禁煙をした覚えなど一度も無い」


妻「結婚当初はまだ貴方のタバコの匂いと煙を我慢出来ましたけど、時が経つにつれてどんどんその匂いも煙もキツくなっていって……それなのに、私が何度言っても貴方はタバコを止めてくれませんでしたね」


俺「当たり前だ。何故俺がお前の言う通りに禁煙をしなければならないのだ」


妻「それどころか、あの頃の貴方はそんな私の言葉を聞く度に殴ったり蹴ったりしてくる始末でしたもの」


俺「それはお前が余りにも俺に禁煙しろとしつこいからだ。俺は全く悪くない。悪いのはテメェの方だろうが。というか俺はリビングの扉の向こうにいると言うのに、先程から何に向かって話しかけているんだこいつは」


妻「本来であれば、その時点で私は貴方に離婚を切り出すべきだったのでしょう」

 

俺「生意気な女だ。俺に禁煙をしつこく迫るどころか離婚の切り出しを考えていたとは、こいつは自分の立場というものをわかっているのだろうか」


妻「ですがそれでも、私は貴方への愛情を完全に捨てられなかった。ですから私は、あの時頑張ることを決心しました。貴方の禁煙の為に」


俺「痛だだだだだだだだだだだだだだだだ!」


○突如、俺の頭に先ほどよりも強い頭痛が走った。頭痛と同時に脳内でフラッシュバックしたのは___惨劇。


妻「アハハハ! 貴方が悪いんですよ! 貴方がいつまで経ってもタバコも私への暴力も辞めてくれないからぁ! 私はこうしなきゃいけなくなったんですよぉ!」


俺「ぐぁっ……ぁぁ……」


○脳裏に映るは、狂気的な笑みを浮かべながら俺の上に跨り、紅に染まる包丁を何度も何度も俺に振り下ろす妻。包丁の刃も奴の眼も、不気味なギラつき具合では肩を並べている。俺はフラッシュバックした脳裏の映像に、ただただ戦慄するより他は無かった。


俺「......思い出した。俺は既にあの女に殺されていたんだ。だったらこんな扉などこうしてすり抜けて仕舞え!」


○すり抜けて入った先のリビングでは、異様な光景が広がっていた。


妻「今こうして、臭い匂いもタバコの煙も撒き散らしたりせず、私に暴力も振らず、その美しい姿と芳しい香りで私を癒してくれる綺麗で完璧な貴方が此処にいるのは、あの時私が頑張りを決意し、それを実行に移したからなのですよ。感謝して欲しいくらいですわね、本当に」


○俺を殺したあの女は、恍惚とした表情を浮かべながら、鉢植えに咲いた鮮血の如き真紅の花を撫で回していたのだ。それを見るだけでも、幽体の奥底からドス黒い何かが込み上げてくるような不快感を催す。しかもその鉢植えを見た途端に、俺の中のドス黒い何かは幽体の中を渦巻いた。


俺「......あの鉢植え、まさか!?」


○その象牙色の鉢植えは___髑髏。あの女が俺を殺したことを考えれば、そいつが誰の物かは聞かずともわかるであろう。


妻「うふふ、それにしても日に日に美しくなればなる程、甘く蕩けちゃいそうなその香りが日に日に強くなる今の貴方は、正しく完璧で理想的な私の自慢の旦那様ですわぁ」


○どうやら俺の妻だった頭のおかしなその女は、今では俺の頭蓋骨に植えられたあの真紅の花を、新しい伴侶にしているらしい。


妻「貴方はもう何も考えずに、こうして仕事帰りの私をその姿と香りで癒しへと誘ってくれるだけでいいのです。それこそが、今の貴方の存在意義なのですから」


俺「冗談じゃねぇ。これ以上大事な俺の頭蓋骨をあんな血生臭い悪趣味な花の鉢植えなんかにされ続けてたまるか。今すぐにでもあの女を殺してやる!」


○俺はドス黒い何かに促されるまま、取り憑いた。悪妻の鉢植え___俺の頭蓋骨に。


俺「愚かな悪妻よ。これからお前はその大事な花を愛でている鉢植えに噛み殺されるのだ。女房の癖に、嫁の癖に、俺に禁煙をさせようとした罰だ。俺を殺した罰だ。俺の大事な頭蓋骨を鉢植えにして、血生臭くて趣味の悪い不気味な花を育てた罰だ! 精々激しい痛みで苦しんで、地獄に落ちやがれぇ!」


妻「きゃあああああああああああああああ!」


○余程驚いたのだろう。悪妻は突然襲い掛かってくる髑髏の鉢植えを見て思いっきり腰を抜かしていた。


俺「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」


○俺はこの隙を見逃すことなく、自分の物であったその歯を突き立て、奴の喉笛に思いっきり喰らい付いた。


妻「ぐぎぎぎぎぎぎ……」


○首から噴き出し滴る真紅の湧水は真紅の花を更に紅く染め、死んでいるはずの俺にさえ鉄を味わわせる。悪妻は歯を食いしばった苦悶の表情をしばらく浮かべていたが、やがて口から泡を噴き出し、ピクリとも動かなくなった。


俺「ふふふ、やった。やったぞ! 俺はようやくこの悪妻に天誅を下したんだ! ザマァ見ろ! いい気味だ!」


○俺は初めて、生きている間は味わえなかった清々しさを噛み締める。本懐を果たした時には、もう幽体の中にあるドス黒い何かは綺麗さっぱり消えていた。これでもう、何も思い残すことはないだろう。


俺「後は安心して成仏するだけか。あばよ、俺の頭蓋骨」

 

妻「やっぱり、貴方だったんですね」


俺「は?」


○突然、後ろから声が響いた。俺は壊れた人形の様に恐る恐る後ろを振り向く。


俺「な、何故お前が!?」


妻「何故って、私も貴方と同様に死んだからに決まっているからでしょうが。全く、度し難いのは死んでも相変わらずですわね」


○後ろに立っていたのは妻の霊。


俺「お、俺は何も悪く無いからな! 全部お前が悪いんだからな!」


○俺は慌ててその場から逃げ出そうと試みた。だが、俺の幽体はピクリとも動く気配がない。振り向くと、妻が暗い笑みを浮かべ、俺の腕をしかと握っていた。


妻「やれやれ、逆恨みで私を殺しておいて自分は悪くないと言い張るなんて、本当にどうしようもない人」


俺「なん……だと……」


妻「ですがそんな貴方を愛し、見捨てることが出来なかった私もまた愚かでした。安心して下さいな。貴方と私は一蓮托生。共に地獄に堕ちましょう……」


俺「や、やめろおおおおおおおおおおおおお!!」


○絶叫を上げるも時既に遅し。俺は地獄の闇へと引き摺り込まれていくのであった。俺を殺した張本人にして、先程俺が殺した相手によって。

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