温泉の女神

 これは、俺が温泉旅行に行った時に起きた不思議な体験をきっかけに今の嫁と結婚したって話。

 俺の名前は、樵田 焦造。 

 趣味は温泉旅行。 

 その日、俺は久々に有給が取れたので、久しぶりに車で温泉旅行に来ていた。 

「さてと、日々の仕事の疲れを取りに行きますかっと」 

 俺は旅館に着くと早速男湯の暖簾をくぐり、服を脱いで風呂場へと赴いた。 

 扉を開けた目の前には露天風呂。 

 その奥に広がるのは雄大な山の景色。

「これだ。これだよ。だから温泉巡りは最高なんだよなぁ」

 俺は雄大な景色を楽しみながら温泉に浸かるべく歩みを進める。

 しかし。 

「うわぁっ!!」 

 あと一歩で温泉に浸かれるという時に石鹸で足を滑らせてしまい、そのまま温泉の中に落っこちて頭を底にぶつけてしまった。 

「痛たた......。チッ、誰だよこんな所に石鹸をほっぽってる奴は......」 

 俺は愚痴りながらも、温泉の中から這い上がる。 

 幸い怪我はなかったものの、温泉から這い出た瞬間それは起こった。

「!?」

 俺の目の前、正確には温泉が突如光り始めたのだった。

 そして次の瞬間、俺は思わず目を疑ってしまった。 

「初めまして。私は温泉の女神のハルです。貴方が落としたのは、この金の斧ですか? それとも銀の斧ですか?」 

 何故なら、何処か神秘性を感じさせる程に見目麗しき美女が光る温泉の中から、まるで異世界から召喚されて来たかの様に現れたのだから。 

 しかも、両手にそれぞれ金の斧と銀の斧を持って、童話でよく聞くテンプレの様な問い掛けをしながら。

 腰まで届く長い銀髪に、少し垂れ気味の蒼い瞳、スッと通った鼻筋と小降りの鼻、そして薄い桜色の唇が完璧な配置で並んだ人形の如く綺麗な顔。

 そして白い陶磁器の如き肌に覆われた肢体は胸と腰回りだけを布で覆っており、俺はその美しさに思わず息を呑み、腰に巻くタオルでテントを張るところであった。

(これ、夢なんじゃね?)

 そう思った俺は頬を抓ってみる。

 痛い。

(つまり、これって現実? いやいやそんな筈は……)

 俺は何とか心を落ち着かせ、

「いや、この温泉には俺が落ちたってだけで俺は斧なんて持ってないんだが……」

 と、冷静さを保ちながら答える。

「貴方は正直者ですね。褒美にこの二つの斧と、私をプレゼントしましょう!」

「は?」

 すると信じられない事に、俺の答えを聞いた女神ハルは微笑みながら、金と銀の斧二本と同時に婚姻届まで渡してきた。

「はいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!?」

 俺は思わず大声を上げてしまった。


「で? 君は一体何者なんだ?」

 あの後、他の客や旅館の女将達から怪訝な目で見られながらも、浴衣に着替えて何とか部屋まで戻ってきた俺は、ハルと名乗る自称女神________________________________、

「あの、私は自称ではなく正真正銘の女神なんですけど」

(こ、こいつ俺の心を読んだか!?)

 ゲフンゲフン、ハルと名乗る女神を部屋に連れ込んで、詳しい話を聞く事にした。

「先程も仰った通り、私は温泉の女神のハルと申します。そして今回、私は正直者な貴方に惚れて嫁入りする事になりました!! パチパチパチパチ」

 女神は如何にもわざとらしそうに拍手をして見せる。

「は? いやいやいやちょっと待て。そんな都合のいい話がある訳……」 

「あるんですよそれが! 貴方があの石鹸で足を滑らせて温泉に落ち、私の質問にちゃんと正直に答えた時からもう運命は決まっていたのですよ! ああ、やっぱりあそこに石鹸置いといて良かった」

「おいコラテメェかよ。あんな所に石鹸置きやがったのは。テメェのせいで怪我したりしたらどう責任取ってくれるんだゴルァ!!」

 最後に聞き捨てならない事を言いやがった女神に、俺は女神の胸ぐらを掴んでブンブンと揺すぶった。

「落ち着いて下さい。そうならない様に温泉に落ちた瞬間貴方に女神の加護を与えましたので。現に温泉の底に頭をぶつけても怪我どころかたんこぶ一つありませんよね」

「ん? まぁ確かにそうだけどさぁ」

 俺は胸ぐらを掴んでいた手を離して答える。

 だが、何処か釈然としないのは気のせいだろうか。

「さてと、それではこの婚姻届にサインをしてください」

 そう言って、女神はさも当然のように俺の目の前に婚姻届を差し出す。

「いや、俺結婚なんてまだ考えてないし……」

 俺は当然、断ろうとするが___、

「言っておきますが拒否権はありませんよ? 私は仮にも神ですので、貴方やその周囲の人達の事のことなんてどうとでも出来ます。それとも、ここで今四肢を切り落とされたいですか?」

 途端に部屋の空気が凍り付く。

 目の前では、瞳からハイライトを失い、両手にギラギラと光る金の斧と銀の斧を持った女神が、何とも悍ましいオーラを醸し出しながらこちらを見つめていた。

「は、はい! 喜んでサインさせて頂きます女神様!!」

 俺はビビりまくりながらその婚姻届にサインをした。


 その後、俺たちは結婚した。

 だが、思えばあの時は不気味で仕方なかった。

 何故なら、結婚報告と花嫁紹介をする為に両親に挨拶しに行った時も、会社に結婚報告をして式への招待状を送った時も、皆まるで俺がずっと前から女神、もといハルと付き合っていた事を知っているかの様な反応をしていたのだから。

 終いには、誰も彼も結婚式のスピーチでハルの事をさも以前からの知り合いであるかの様に語る有様。

 流石に俺も気味が悪くなり、その事について式の最中にウエディングドレスの女神様にこっそり耳打ちした。

「ふふ、女神の私に出来ない事なんて無いのですよ」

 その反応に、俺は内心戦慄した。

 何故なら純白のウエディングドレスに身を包み、更に神秘性が増した絶世の美女が、微笑みながらも何処か冷たい氷の様な表情を浮かべ、虚空を見つめる様に虚ろな瞳を俺の方へと真っ直ぐに向けていたのだから。

 詳しくはよくわからないが、恐らく女神の力で皆の記憶を改変したのだろう。

 そう考えた俺は式の間終始、引き攣った笑顔を浮かべていた。

(全く、俺もとんでも無い女と結婚しちまったもんだなぁ)


 だが、いざ結婚生活が始まってみると、その生活は頗る快適であった。

 家に帰れば毎日、栄養満点の美味い食事と、良い湯加減の風呂が用意されており、家もピカピカに掃除されている。

 そして何より、エプロン姿の可愛い女神様が俺をお出迎えしてくれる。

 加工食品やスーパーの惣菜等で腹を満たし、シャワーを浴びて片付いてない部屋で寝ていた独身時代とは桁違いの生活水準。

 ハルは、実によく俺に尽くしてくれた。

「いつもいつもありがとうな。こんなに尽くしてくれるなんて俺は最高の嫁さんを貰ったなぁ」

「いえいえ、愛しの貴方の為なら私は何でも尽くしてあげますよ」

 若干の申し訳無さを感じながらも、俺はこの生活を享受し、何時しか結婚式の際に抱いていた彼女への恐怖心は何処かに消え去っていった。

 そして、ハルと結婚して毎日尽くしてくれる様になったおかげでここ最近仕事も絶好調。

上司に褒められる事が増え、仕事の成績も給料もメキメキと上がり、この度めでたく出世する事が決まった。


 出世が決まった日の夜、俺は出世祝いに同僚と久しぶりにキャバクラで飲む事にした。

(思えばハルと結婚してから、そういう刺激とは縁遠い生活になったなぁ)

 そう思うと、俺は途端に独身時代が恋しくなった。

 その恋しさ故に、俺はキャバクラで気に入った女の子を侍らせながら飲みまくった。

 途中から同僚に止められてる様な気もしたが、最早そんな記憶も残っていない。

 気が付けばもう空が明るくなっていた。

 請求された金額は50万。

 手痛い出費であったが、俺はコンビニのATMから金を下ろして代金を支払い、酔っ払いながら同僚と一緒に始発の電車に乗り、家路に就いた。


 同僚に抱えられながら家に着きドアを開けると、そこにはニコニコ笑顔で両手にギラギラと輝く金の斧と銀の斧を持った女神様がお出迎え。

 だが、明らかに目が笑っておらず、全身から負のオーラが滲み出ていた。

「し、失礼しやしたー」

 その雰囲気で色々と察したのか、同僚は冷や汗をかきながらそそくさと逃げ帰った。

「お帰りなさい、貴方。昨日は貴方の出世祝いだからとびっきりのご馳走を準備して待っていたんですよ? それなのに、貴方の帰りをで健気に待つ妻を蔑ろしてへべれけになるまで酔っ払って、挙句の果てには香水と他の女の匂いまでこびり付けて朝帰りですか……一体こんな時間になるまで何処で遊び呆けていたのですか?」

 ゆっくりと壊れた人形の様に首を傾けながら、ハルが問いかける。

「い、いやぁ違うんだ……、昨日は遅くまで残業が溜まってて終電逃したもんだからネカフェに泊まってたんだよ……」

 目の前の様子にすっかり酔いが吹っ飛んだ俺は、何とか誤魔化そうと言い訳を試みる。

 だが、ここで大きな失敗をしてしまった事に気付く。

(し、しまった! こいつは温泉の女神だった!)

 だが気付いた時にはもう遅く、ハルは口角を上げて目を見開き、ハイライトの無い虚ろな瞳で俺を真っ直ぐに見つめながらこう言った。

「貴方は嘘つきですね……」

 その言葉と同時に、俺の両腕と両脚に金の斧と銀の斧が振り下ろされた。

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