ながれむら奇譚
20211004
宇野常寛編『モノノメ』の、松田法子「湧水東京ー生きのびる土地」を読んで、イームズの『POWERS OF TEN』という動画を思い出した。
イームズの動画は、自分のいる場所から世界を俯瞰して、みる。そしてグーグルアースを操るように、 10倍、100倍とスケールを拡大縮小しながら世界を見渡していく。
イームズの動画の魅力は、自在にスケールを変えていくことで、モノの見方の相対化であったり、マクロからミクロまでの連続性を喚起させるところなのだと思う。
一方で、スケールを自在に変えるっていうあり方に、身体性の欠如らしきを感じなくもない。
鳥の眼みたいな俯瞰に似た視野を手にすることができたとしても、それは身体を通じて獲得した具体的に事物のなせる技だろう。
松田さんの論考の、都市あるいは集落の捉え方には、身体らしきが通っている気がしておもしろかった。
人間を起点としながら、生命を取り巻く要素を、即物的にデータとして得る。そして実際にそこにおもむく。
その往還に、イームズのスケール操作を思い出したのだと思う。
と同時に、松田さんの論考の方に、より刺激的な手触りを感じる。
また、大学院時代の集落研究も思い出した。古くからの人の居住地を“千年村”とよび、いろいろと調べてはみてまわっていた。
どうしてその場所には古くから人が住んでいるのか。今なお住み続けるポテンシャルと工夫とは、どんなモノがあるのか。そんなことを調査していたように思う。
今となってみれば、何年続くかどうかってことに、僕はあまり興味がなかった気がする。
人が暮らし、生きていく場所にどうやって触れていくのか。その技がおもしろかった。
そしてそれは、イームズが縮尺の流れとして、世界を捉えようとしたのと似てもいた。
地質や気象、地形、水。そういったスケールというか、流れを掴むモノとして、あの頃の集落研究はおもしろく感じられたのだと思う。
来年度、僕は小川村に引っ越す。家を買って、今なおしている。
そこであらためて、自分が住む場所の研究をちまちまとしていこうと、松田さんの論考に触れて思った。
自分の住まい、寄って立つ場所は、どんな流れの中にあるのか。どういう流れの中にあって、どの流れを改変し、どの流れを滞らせないようにするか。
そんなことの記録に、少しずつ取り組んでいきたい。
僕は何かをレペゼンすることは得意でないから、その場所の名は借りることなく、違うレイヤーの場をつくるくらいでやっていきたい。
“小川”=“stream”=“流れ”
小川村の中に、人知れずある“流れ村”のお話。
ながれむら奇譚。
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